タイ政府が推進する「国家デリスキング戦略」が注目を集めている。この戦略は単なる米中対立への対応策ではない。地政学的変動を好機と捉え、経済構造を高付加価値産業へと根本的に転換する野心的な国家プロジェクトである。しかし、その成功は国内の構造改革にかかっている。
地政学的変動を好機に変える戦略転換
タイのデリスキング戦略の背景には、米中貿易摩擦による「ツイン・インフラックス」のリスクがある。中国からの安価な製品流入と、米国からの貿易圧力という二重の脅威に直面したタイは、この危機を逆手に取った。
企業がサプライチェーンを中国から多様化する「チャイナ・プラスワン」の動きを捉え、積極的な外国直接投資(FDI)誘致に転じている。タイは地政学的なリスクを軽減するという受動的な対応から、新たな投資機会を創出する攻めの戦略へと舵を切った。
ただし、競争は激しい。ベトナムは2021年から2023年にかけて日本からの投資が54%増加したのに対し、タイは13%の伸びに留まっている。より安価な労働コストと若い労働力を持つベトナムに対抗するため、タイは高付加価値セクターでの差別化を図っている。
4つの柱で支える経済変革
タイのデリスキング戦略は4つの主要な柱で構成されている。
第1の柱:BCG(バイオ・循環型・グリーン)経済
農業と生物多様性という強みを活かし、技術で高付加価値製品を生み出す戦略。国営石油・ガス会社PTTやセメント大手SCGなど、大企業が積極的に推進している。2030年までの温室効果ガス削減目標と連動し、持続可能な成長モデルを目指す。
第2の柱:電気自動車(EV)革命
「30@30」計画(2030年までに国内自動車生産の30%をEV化)を掲げ、EV3.0・EV3.5政策で強力なインセンティブを提供。中国のBYD、長城汽車、長安汽車などが相次いで投資を決定し、タイを東南アジアの生産拠点として選択している。
第3の柱:ニューエコノミー
AI・デジタル・ハイテク産業への転換を加速。2027年までにASEANのAIハブとなる「国家AI行動計画」を推進し、グローバルなテクノロジー企業との提携を強化している。
第4の柱:システム強化
金融システムではバーゼルIII基準の2028年導入、災害対策では気候変動リスクの緩和を第13次国家経済社会開発計画の重要マイルストーンに位置づけている。
中国依存のパラドックス
タイのデリスキング戦略には興味深いパラドックスが存在する。中国からの経済的依存を低減しようとする一方で、EV分野では中国企業からの大規模投資を積極的に受け入れているのだ。
中国自身が米欧からの圧力で生産拠点を多様化する「中国版デリスキング」を進める中、タイはその重要なハブとなりつつある。これは脱中国ではなく、より高度なバリューチェーンでの再結合を意味している。
この状況は、古い産業からの多様化を目指すデリスキング戦略が、皮肉にも特定の産業と外国パートナーへの新たな集中リスクを生み出すという矛盾を露呈している。
最大の課題は中小企業の取り残し
デリスキング戦略の最大の課題は、中小企業(SME)の包摂問題である。SMEはタイ全企業の99.5%を占め、雇用の約70%を担う経済の屋台骨だ。しかし、「ニューエコノミー」の恩恵を受ける上で深刻な障壁に直面している。
主な問題は資金調達へのアクセス困難、政府政策へのアクセス困難、技術・スキルギャップの3点。銀行は担保や財務履歴を重視する伝統的評価基準を用いており、これらを持たないSMEは著しく不利な立場に置かれている。
政府は名目上SMEの包摂を掲げているが、投資委員会(BOI)の優遇措置は実質的に大企業向けに設計されている。最大の雇用源であるSMEを新経済モデルに統合できなければ、経済変革は一部の成功に終わり、社会全体の安定を損なうことになりかねない。
今後の予想と企業への提言
タイ高速鉄道フェーズ2承認から5ヶ月 ~地域経済活性化への期待と中国依存リスク~で示されたように、タイの大型インフラ投資には中国依存のリスクが常に付きまとう。デリスキング戦略の成功には、このジレンマの解決が不可欠だ。
労働市場は根本的な変化に直面する。高付加価値産業への転換は新たな高スキル職を創出する一方、従来の内燃機関自動車産業などの労働者の職を奪う可能性がある。大規模なリスキリング(再教育)への取り組みが急務となる。
BKK IT Newsは、タイのデリスキング戦略の成功は、華やかなFDI誘致よりも地味な国内構造改革の実行にかかっていると考える。SMEの資金調達障壁を打破する新たな信用評価モデルの構築、政策の一貫性確保、そして教育・職業訓練システムの抜本改革が必要だ。
企業は、この変革期において以下の対応が重要となる。まず、EV・AI・BCGといった成長分野での投資機会を精査すること。次に、SMEとの連携を通じたサプライチェーンの現地化推進。そして、従業員のスキル向上投資を通じた人材の競争力強化である。
タイの野心的なデリスキング戦略は、地政学的変動を成長機会に変える画期的な試みだ。しかし、その真価は実行段階で決まる。国内の構造改革という地道な作業こそが、この壮大な国家プロジェクトの成否を分ける鍵となるだろう。
参考記事リンク
- Thailand’s 20-Year National Strategy and Thailand 4.0 Policy – OD Mekong Datahub
- Thailand Overview: Development news, research, data | World Bank
- Charged Up: China Driving Thailand’s EV Industry | New Security Beat
- Thailand Economic Monitor February 2025: Unleashing Growth – Innovation, SMEs and Startups – World Bank