2025年7月23日、トランプ政権が発表した「Winning the AI Race: America’s AI Action Plan」(AI競争に勝利する:アメリカのAI行動計画)は、世界の技術地政学を根本から変える歴史的な宣言となった。この計画が掲げる「疑う余地のない、挑戦されることのない世界的な技術的支配」という目標は、もはや競争ではなく絶対的な覇権確立を意味している。
AIを巡る米中対立の激化
AI分野における米中の競争は、2017年に中国が「2030年までに世界のAIリーダーになる」と宣言したことで本格化した。この野心的な目標に対し、米国は段階的に対抗策を強化してきた。
オバマ政権時代(2016年)は技術の理解と適応に重点を置いていた。第一次トランプ政権(2019年)では「アメリカンAIイニシアチブ」により競争での優位を目指した。バイデン政権(2023年)は安全性を重視し「安全、セキュア、かつ信頼できるAI」を追求した。
しかし第二次トランプ政権の今回の計画は、これまでとは質的に異なる。「リーダーシップ」から「支配」へと明確に転換し、地政学的な最終兵器としてAIを位置づけている。
3つの柱による「支配戦略」
トランプ政権のAI行動計画は3つの柱で構成されている。
第1の柱:イノベーションの加速
規制緩和を徹底し、AI開発を阻害する連邦規制の撤廃を進める。特に注目すべきは「反ウォーク(反覚醒)」指令だ。連邦政府が調達するAIモデルから多様性・公平性・包摂性(DEI)、批判的人種理論(CRT)といった概念を排除することを義務化した。
第2の柱:インフラ構築の大加速
「Build Baby Build!」のスローガンの下、データセンターと半導体工場の建設を国家最優先事項として推進する。環境規制を緩和し、原子力発電を含む「信頼性の高い電源」確保を重視している。
第3の柱:「フルスタックAI輸出パッケージ」
最も重要な外交政策として、同盟国に対しハードウェア、AIモデル、ソフトウェア、技術標準を包括的に提供する。これは世界を米国主導と中国主導の2つの技術圏に意図的に分割する戦略である。
タイが直面する戦略的ジレンマ
この米国の戦略は、タイの国家戦略を根幹から揺るがしている。タイは「タイランド4.0」と「国家AI行動計画(2022-2027年)」により、東南アジアのAIハブを目指してきた。しかしその基盤となる倫理的・包摂的なAI発展という理念は、米国の新戦略と真っ向から対立する。
さらに深刻なのは地政学的な圧力だ。米国の「フルスタック」技術を採用すれば、ハードウェア供給からソフトウェア更新まで米国に完全依存することになる。これは中国の技術との並行利用を事実上不可能にし、これまでの戦略的中立性を放棄せざるを得ない。
実際に米国商務省は、中国への半導体密輸防止を理由にタイとマレーシアへのAIチップ輸出制限を検討している。この動きは、タイのデータセンターハブ構想に直接的な脅威となっている。
経済機会とリスクの天秤
米国との連携には明確な利益がある。最先端AI技術へのアクセス、「フレンドショアリング」による投資誘致、製造業の新たな受け皿としての機会などだ。
しかし技術的従属というリスクも大きい。米国の政治や輸出管理政策の変動に国家インフラが左右される脆弱性、米中技術戦争によるサプライチェーン混乱、最大貿易相手国である中国からの経済報復の可能性が存在する。
社会・文化への深刻な影響
IMFはタイの全雇用の約40%がAIの影響を受けると試算している。米国製AIの導入加速により、雇用喪失も加速する可能性がある。
さらに問題なのは、西洋データで訓練され「反ウォーク」イデオロギーに基づくAIモデルの輸入だ。これらはタイの文化的機微を理解できず、「ナムチャイ(思いやり)」といった価値観と衝突する恐れがある。
「主権的回復力」戦略という選択肢
この状況下で、タイが採用する可能性のある戦略として「主権的回復力(Sovereign Resilience)」というアプローチが考えられる。これは米中どちらかの陣営に完全に与するのではなく、自国の主権と選択の自由を維持しながら戦略的多様化を図る道筋だ。
外交面では、米国との科学技術協力協定のような特定の互恵的枠組みでの協力を継続しつつ、AI同盟への全面参加は避ける方向になる可能性がある。ASEANを交渉ブロックとして強化し、集団的交渉力を確保する動きが予想される。
経済面では、貿易・投資パートナーを多様化し、特定国への過度な依存を減らす政策が検討される可能性がある。特定技術に偏らない「規制サンドボックス」を設立し、タイ独自のAIガバナンス・フレームワークを構築する動きも想定される。
技術面では、タイ語と国内主要セクターに特化した小規模言語モデル(SLM)開発への集中投資が行われる可能性が高い。オープンソースモデルの活用により、ベンダーロックインを回避し技術的柔軟性を維持する方針が取られると予想される。
人材面では、AIツールの使い方だけでなく、批判的思考、創造性、人間的共感といった独自能力を育成する国民的再教育プログラムが緊急課題として立ち上がる可能性がある。
3つのシナリオと選択の時
タイの将来には3つのシナリオが考えられる。
1. 従属国家シナリオ
米国AI同盟に全面参加し、短期的な技術アクセスの代償として長期的な主権を失う可能性がある。
2. 戦場シナリオ
明確な戦略なく両陣営を使い分けようとし、米中双方の圧力の標的となり国内が分断される恐れがある。
3. 主権的回復力シナリオ
主権的回復力戦略を成功させ、自国AI能力を育成し、ASEAN内でリーダーシップを発揮することで、米中双方から尊重される中立的パートナーとしての地位を確立する道筋である。
米国のAI行動計画は世界の技術地政学を不可逆的に変える可能性が高い。タイにとってこの変化は計り知れない挑戦となるが、同時に国家の未来を再設計する機会ともなり得る。「主権的回復力」の道は容易ではないものの、来るべき「インテリジェント・エイジ」において自国の運命を切り開く有力な選択肢となる可能性がある。選択の時期は迫っており、その決断が未来世代の繁栄を左右することになると予想される。