AI技術を巡る世界の構図が根本から変わろうとしている。各国政府が「ソブリンAI(主権AI)」の確立に向けて動き出している。これは単なる技術競争ではない。国家の安全保障、経済的自立、文化的アイデンティティを守るための戦略的な取り組みだ。タイも2027年までにASEANのAIハブとなることを目指し、この世界的潮流に参入している。
ソブリンAIの定義と重要性
ソブリンAI(主権AI)とは、一国が自国のインフラ、データ、人材、ビジネスネットワークを用いてAIを開発・運用する能力を指す。これは単なる技術的概念ではない。データ主権、規制遵守、インフラ管理を最優先とする枠組みの中でAIシステムを構築・展開・統治することを意味する。
究極的にはAIスタックの全レイヤーを自ら所有し管理下に置くことを目指す。物理インフラからモデル、データ、アプリケーションに至るまでだ。国家の経済安全保障や文化的アイデンティティの保護といった文脈で語られることが多い。
ソブリンAIの確立には三つの重要な要素が必要だ。第一に「計算インフラ」。現代のAI、特に大規模言語モデル(LLM)の開発と運用には極めて高い並列処理能力を持つ計算資源が不可欠である。第二に「独自データ」。自国の言語、文化、歴史、社会規範を反映した高品質なデータセットが必要だ。第三に「専門人材」。これらを活用してAIを開発、運用、革新できる人材の育成である。
データ主権からAI主権へ
ソブリンAIの概念は一夜にして生まれたものではない。その起源は「データローカライゼーション」政策にある。各国が自国で生成されたデータを物理的に国境内に留める動きは2014年のロシアのデータローカライゼーション法導入に始まった。
エドワード・スノーデンによる米国監視プログラムの暴露が契機となった。各国政府は外国政府によるデータアクセスや監視への懸念を強めた。この動きは「データ主権」という概念に発展した。データが収集された国の法律とガバナンスに従うべきという原則だ。
さらに「デジタル主権」へと拡張された。データだけでなく、ハードウェア、ソフトウェア、標準規格、ガバナンスプロトコルを含むデジタルインフラ全体の自律的管理能力を指す。生成AIの登場により、この議論は最終的に「ソブリンAI」に到達した。データを国内に保持し法的に管理するだけでは不十分になった。自国の言語、文化、価値観を深く理解し反映した独自のAIモデルを自らが管理するインフラ上で開発・運用する能力が求められる。
米中技術覇権争いが生んだ新戦略
ソブリンAIが国家戦略として浮上した背景には長期的な地政学的変化がある。特に「テクノナショナリズム」の激化と米中間の技術覇権争いが重要な要因だ。
テクノナショナリズムとは、技術革新を国家の安全保障、経済的繁栄、社会的安定に直結させ、国家総力を挙げて技術的優位性を追求する思想である。21世紀の国際関係において、AI、半導体、5G/6Gといった先端技術は単なる経済競争の対象ではなく、国家パワーそのものを規定する戦略的資産となった。
米国による対中政策がその典型例だ。先端半導体とその製造装置に関する厳格な輸出規制、米国投資家による中国ハイテク企業への投資制限といった措置を講じている。これらの政策は数十年にわたり深化してきたグローバルな技術サプライチェーンに深刻な分断をもたらした。
生成AIブームが決定打に
地政学的緊張が道を拓いた一方で、ソブリンAIを決定的に加速させたのは2022年11月にChatGPTのリリースから始まった生成AIブームだ。ChatGPTの登場に象徴される生成AIの急速な普及は社会のあらゆる側面に破壊的インパクトをもたらした。
しかし、この革命は深刻な構造的問題を浮き彫りにした。最先端のAI開発と運用に不可欠な三つの核心的資源—膨大な計算能力、大規模データセット、高度な専門人材—がGoogle、Microsoft、Amazon、NVIDIAといったごく少数のビッグテックに極端に集中している。
大規模言語モデル(LLM)の学習には数百万ドルから数億ドル規模の計算コストが必要だ。ほとんどの国家や企業、研究機関にとって参入障壁が極めて高い。このビッグテックへの権力集中は国家レベルで看過できないリスクをもたらす。外国の特定企業が提供するクローズドソースのAIモデルに国家の重要インフラや経済活動が依存することは国家の自律性を著しく損なう。
各国のソブリンAI戦略
世界各国がソブリンAI戦略を具体化している。日本はAI戦略2022の下で数兆円規模の投資を実施し、LLM開発と人材育成に重点を置く。シンガポールはNational AI Strategy 2.0でSEA-LIONプロジェクトに5,200万ドルを投資している。
UAEはNational Strategy for AI 2031でFalcon LLM開発を推進し、2031年までにAI分野の世界的リーダーとなることを目指す。インドは12億ドルのAIミッションで包摂的成長を追求している。韓国は国産LLM開発とAI半導体に注力し、フランスは4,400万ドルでJean Zayスーパーコンピューター改修を実施している。
各国の戦略には共通点がある。外国の技術プラットフォームへの依存脱却、自国の言語・文化に特化したAIモデル開発、そして専門人材の育成である。これらの取り組みは単なる技術的な挑戦ではなく、デジタル時代における国家主権の確立を意味する。
ソブリンAIの構造的課題
ソブリンAIには根本的な矛盾が内在している。各国がAI主権を目指しながらも、その実現に不可欠な計算インフラ(GPU)、クラウドサービス、基盤となるAIソフトウェアの多くを特定の海外企業に依存している現実がある。
特にNVIDIAのGPU、Google、Microsoft、Amazonのクラウドサービスへの依存は深刻だ。この構造的依存は、一つのレイヤーでの主権確保のために、より基盤的なレイヤーでの新たな依存関係を生み出すことを意味する。地政学的リスクやサプライチェーンの脆弱性という形で、将来的にAI戦略の自律性を脅かす可能性がある。
真のソブリンAIを実現するには、この「ソブリンAIのパラドックス」を認識し、それを管理・軽減するための長期的戦略が不可欠となる。各国は完全な技術的孤立ではなく、信頼できるパートナーとの選択的協力関係を模索する方向に向かっている。
今後の展望とタイの挑戦
BKK IT Newsとしては、ソブリンAI競争は今後さらに激化すると予想する。各国は完全な技術的孤立ではなく、地政学的に信頼できるパートナーとの選択的協力関係を構築する方向に向かうだろう。この「連合型ソブリンAI」が新たなトレンドになる可能性が高い。
特にASEAN地域では、各国が協力してより大きなスケールメリットを確保する動きが活発化するだろう。インドネシアがグローバルサウス諸国とのAI対話を主導しようとしている動きも、この地域連携の一環として捉えることができる。
タイもこの世界的潮流の中で独自の戦略を展開している。「Thailand 4.0」戦略の下で2027年までにASEANのAIハブとなることを目指し、国産LLM「ThaiLLM」の開発や6年間で3万人のAI専門人材育成といった野心的な取り組みを進めている。
タイの具体的なAI戦略については、過去の記事「タイのAI国家戦略が本格始動 ~2027年までに1000万人のAIユーザー育成目指す~」や「タイAI白書公開~Thailand 4.0実現に向けた国家戦略と製造業変革への道筋~」で詳しく解説している。
企業が取るべき戦略的対応
企業はソブリンAI時代に向けて三つの対応策を検討すべきだ。
第一に「地政学的リスクの評価」である。AI技術やサービスへのアクセスが突如制限される可能性を想定したリスク管理体制の構築が必要だ。特定の技術プロバイダーや地域への過度な依存を避け、複数の選択肢を確保する。
第二に「ローカライゼーション戦略」の推進。現地のAI人材育成、データの国内蓄積、地域パートナーとの連携強化を図る。各国の国産AIモデルとの連携可能性を探り、現地固有の規制や文化的コンテクストを理解できる体制を構築する。
第三に「技術的多様化」の実現。単一のAIプロバイダーに依存しない「マルチベンダー戦略」を採用し、各国のソブリンAI政策に適合したシステム設計を進める。これにより地政学的変動によるビジネス中断リスクを最小化できる。
ソブリンAI時代は国家間の技術競争が激化するが、同時に各国固有の強みを活かした協力の機会も生まれる。企業にとっては新たなビジネス機会と位置づけることができる。
参考記事リンク
・What Is Sovereign AI? | NVIDIA Blog
・Thailand national AI strategy and action plan (2022 – 2027) – AI Thailand
・Sovereign AI: How governments are seeking technological independence in artificial intelligence – Fundación Innovación Bankinter
・National Strategy for AI (#AIforAll) – Government of India
・AI戦略2022の概要