タイの街中に張り巡らされた乱雑な架空通信ケーブル、通称「スカイ・スパゲッティ」の問題が新たな局面を迎えている。2025年9月1日、タイ消費者評議会(TCC)が政府に対して体系的な対応を求める公式要求を行った。単なる美観の問題を超えて、市民の生命や国家のデジタル戦略に関わる深刻な危機として位置づけられた今回の動きは、企業活動にも大きな影響を与える可能性がある。
30年放置された問題が臨界点に到達
タイの架空ケーブル問題の起源は、1990年代の通信市場自由化にさかのぼる。それまで国営企業が管理していた通信インフラが民営化されると、複数の事業者が激しい競争を繰り広げることになった。各社は迅速な市場参入を優先し、地中埋設よりも桁違いに安価で速い架空敷設を選択した。
問題を深刻化させたのは、新しいケーブルは追加されるが古いケーブルは撤去されないという慣行だった。責任の所在が不明確で、撤去にコストがかかることが主な原因だ。この30年間、通信事業者は新たな技術世代が登場するたびに、既存インフラの上にケーブルを重ねてきた。ADSL、光ファイバー、5Gのバックホールまで、すべてが積み重ねられた結果、現在の混沌とした状況が生まれている。
規制の責任も断片化されている。電力公社(MEA/PEA)は電柱の所有者だが、通信ケーブル管理は専門外だ。国家放送通信委員会(NBTC)は規制当局だが、執行が甘く罰則も不明確と批判されている。バンコク都庁は都市景観に責任を持つが、公益インフラへの直接的権限は限定的だ。
1,177件の苦情が示す市民の危機感
TCCの今回の行動は、客観的データに基づいた戦略的なものだ。危険なケーブルに関する消費者からの苦情は累計1,177件以上に達し、問題が全国規模で発生していることを示している。
さらに決定的なのは、TCCが2,199人の消費者を対象に実施した調査結果だ。回答者の92.1%が乱雑なケーブルを重大事故の原因と捉えており、80%がNBTCを主要責任機関と見なしている。苦情処理には最短29日、最長101日を要するという報告は、現行システムの非効率性を浮き彫りにしている。
実際の事故も相次いでいる。2025年1月にはナコンラチャシマ県で女性がバイク運転中に垂れ下がったケーブルに引っかかり骨折、5月にはムクダハン県で16歳少年が光ファイバーケーブルで負傷、8月にはラヨーン県で男性が小指を切断されるという痛ましい事故が発生した。これらは氷山の一角に過ぎない。
4つの解決策で制度改革を要求
TCCは問題の根本原因に対処するため、包括的な解決策を提示した。
第一に、消費者代表を含む県レベルの管理委員会設置だ。中央集権的な機関から地方分権化し、意思決定の遅延や停滞を回避する狙いがある。
第二に、各県で年間少なくとも10kmの使用済みケーブルを撤去するための専門予算確保だ。電柱に蓄積し続ける「死んだ電線」問題の核心に直接対処する具体的な行動計画だ。
第三に、「シングル・ラストマイル(SLM)」システムの推進だ。消費者への最終接続部分を共有化し、複数事業者がケーブルを重複敷設することを防ぐモデルだ。パタヤやカオサン通りで試験導入が進んでいる。
第四に、通信事業者の電柱使用料15-20%を原資とした被害者補償基金の設立だ。事故の経済的負担を業界全体で負い、安全対策へのインセンティブを高める効果も期待される。
タイランド4.0構想との深刻なパラドックス
この問題の核心は、タイが掲げる「タイランド4.0」戦略との矛盾だ。デジタル技術を駆使した価値創造型経済への転換を目指すタイにとって、5G、IoT、AIといった先進技術の活用は不可欠だ。実際、5Gの人口カバー率は2025年までに99%に達すると予測されている。
しかし、これらの先進技術は信頼性が高く災害に強いインフラを必要とする。現在の脆弱で混沌とした架空ケーブル網は、デジタル戦略全体のアキレス腱となっている。たった一本のケーブル切断が連鎖障害を引き起こし、国家戦略の基盤を揺るがしかねない。
地中化が理想的な解決策だが、コストは架空敷設の約10倍にのぼる。首都圏電力公社(MEA)は2025年にバンコク首都圏の47路線、総延長171km以上の地中化計画を推進しているが、莫大なコストと政府補助金不足が進捗を阻んでいる。
企業活動への影響と対応の必要性
この問題は企業活動にも直接的な影響を与えている。まず、事業継続性のリスクだ。ケーブル事故による通信障害は、製造業のIoT、金融業のオンライン取引、小売業のデジタル決済など、あらゆる業界の事業継続を脅かす。
次に、投資環境への影響だ。複雑に絡み合った電線が象徴する都市景観は、タイの国際的イメージを損ない、外国投資家の信頼を揺るがす可能性がある。データセンターやフィンテックなど、信頼性の高いデジタルインフラを前提とする高付加価値産業への投資判断にも悪影響を与えかねない。
さらに、法的リスクも存在する。事故による損害賠償や事業停止リスクに加え、今後強化される規制への対応コストも考慮する必要がある。
企業が取るべき戦略的対応
BKK IT Newsの分析では、この問題の解決には少なくとも5-10年を要すると予想される。企業は長期的な視点で対応策を講じる必要がある。
まず、リスク評価の強化だ。自社のデジタルインフラ依存度を評価し、通信障害時のバックアップ計画を整備することが重要だ。クラウドサービス利用企業は、複数のアクセスルートや冗長化システムの導入を検討すべきだろう。
次に、SLM導入への積極的参加だ。試験地域での実証実験に参加し、新たなインフラモデルでの事業運営ノウハウを蓄積することで、将来の競争優位性を確保できる。
投資判断においては、地中化済み地域やSLM対応エリアでの事業展開を優先する選択肢がある。初期コストは高くても、長期的な安定性と信頼性を重視する戦略だ。
また、政府の政策動向を注視し、規制強化や補助金制度の変化に適応する準備も必要だ。特に通信事業者は、使用済みケーブル撤去の義務化や補償基金拠出の法制化に備える必要がある。
転換点を迎えた国家的課題
今回のTCCの行動は、この問題が新たな段階に入ったことを示している。単なる都市美化の問題から、国家の競争力とデジタル戦略の成否を左右する戦略的課題へと位置づけが変わった。
政府の対応いかんによっては、タイが「デジタル立国」の看板と現実のギャップに苦しむ状況が長期化する可能性がある。一方で、この問題を契機として、より強靭で持続可能なデジタルインフラが構築されれば、ASEAN地域におけるタイの競争力向上につながるだろう。
企業にとっても、この問題への対応が今後の事業戦略を左右する重要な分岐点となる。短期的なコスト増を伴っても、長期的な安定性を重視した投資判断が求められている。