タイ国家戦略Thailand 4.0 ~2025年時点での評価と今後の展望~

タイ国家戦略Thailand 4.0 ~2025年時点での評価と今後の展望~ IT
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2025年7月、Thailand 4.0構想の発表から9年が経過した。中所得国の罠からの脱却を目指すタイの野心的な国家戦略は、現在どのような成果を上げているのか。東部経済回廊(EEC)プロジェクトの進捗状況から人材育成の課題まで、2025年時点での現状評価と今後の展望を詳しく解説する。

Thailand 4.0とは何か

Thailand 4.0は、2016年にプラユット軍事政権が発表した長期経済発展戦略である。農業経済(Thailand 1.0)から軽工業化(Thailand 2.0)、重化学工業化(Thailand 3.0)と発展してきたタイが、次の段階として「イノベーション主導型経済」への転換を目指している。

最終目標は2036年までの高所得国入りだ。一人当たり国民所得を2014年の5,470ドルから2032年までに15,000ドルへ引き上げる計画である。この野心的な目標達成のため、政府は12の「Sカーブ産業」を重点分野として設定した。

既存産業の高度化を目指す「First S-Curve」では、次世代自動車、スマート・エレクトロニクス、富裕・医療・健康ツーリズム、農業・バイオテクノロジー、未来食品の5分野を指定。新たな成長エンジンとなる「New S-Curve」では、ロボット産業、航空・ロジスティクス、バイオ燃料・バイオ化学、デジタル産業、医療ハブ、防衛産業、人材開発・教育サービスの7分野を育成対象としている。

EEC(東部経済回廊)プロジェクトの現状

Thailand 4.0の具体的な推進拠点として位置づけられるEECは、バンコク東部のチョンブリ県、ラヨーン県、チャチュンサオ県の3県にまたがる経済特区である。2023年にはタイへの投資申請総額の54%がEEC向けとなり、投資誘致の中心地としての地位を確立した。

しかし、インフラ開発では明暗が分かれている。レムチャバン港第3期拡張やマプタプット港第3期拡張は比較的順調に進捗し、2027年からの段階的開業を予定している。2024年にはラヨーン県で2,500メガワット級の大型ガス火力発電所が商業運転を開始するなど、個別プロジェクトでは着実な成果も見られる。

一方、EEC全体の連結性を担う最重要プロジェクトである3空港連結高速鉄道は深刻な遅延に直面している。総事業費2,718億バーツの巨大プロジェクトは、民間事業者との契約締結から5年以上が経過した現在も、土地収用や契約内容を巡る問題から本格的な建設に着手できていない。この遅延は、ウタパオ国際空港拡張計画にも影響を与えており、民間事業者が当初計画の半分の処理能力に縮小する提案を行う事態となっている。

深刻化する人材不足問題

Thailand 4.0推進における最大のボトルネックは人材不足である。デジタル経済推進機構(DEPA)の発表によると、タイで必要とされるデジタル人材は年間100万人にのぼるが、教育システムがこの需要に追いついていない。OECDの国際学習到達度調査(PISA)では、タイの生徒の成績は科学、読解力、数学のいずれも世界平均を下回る状況が続いている。

さらに深刻なのは、産業界が求める実践的スキルと大学教育で提供される知識との間に存在する「スキルのミスマッチ」だ。多くの大学卒業生が企業の求める能力を持たないまま労働市場に出てくるため、企業は即戦力となる人材を確保できず、一方で若者の失業率は高止まりするという矛盾した状況が生まれている。

政府もこの問題を最重要課題と認識し、BOIを通じた人材開発投資への税優遇措置や、民間企業と連携したIoT人材育成プロジェクトなど様々な対策を講じている。しかし、これらの取り組みはまだ点的・散発的であり、慢性的な人材不足を解消するには至っていない。

デジタル化の進展と格差

デジタル経済への移行はThailand 4.0の中核をなしている。インフラ面では目覚ましい進歩が見られ、5G通信網は人口の90%近くをカバーし、固定回線のインターネット速度は世界トップクラスとなった。政府が推進したPromptPayやThaIDといったデジタル公共サービスも広く普及し、ASEAN地域でも先進的な水準に達している。

しかし、この恩恵は社会全体に均等に行き渡っているわけではない。タイの全企業の85%を占める中小企業では、デジタル化が著しく遅れている。背景には、投資資金の不足、デジタル人材の欠如、旧来のITシステムへの依存といった複合的な要因がある。多くの製造現場では、依然として紙ベースの管理が主流であり、生産性向上の足かせとなっている。

地政学的追い風と競争激化

近年、米中対立を背景とした「チャイナ・プラスワン」の動きがEECへの投資を後押ししている。中国や台湾の大手プリント回路基板メーカーなどが、地政学リスクを回避するための分散投資先としてタイに注目している。

しかし、この投資流入は新たな競争も生み出している。タイに進出してきた中国系企業は、日系企業など既存企業よりも高い賃金を提示して人材を確保する傾向があり、国内の優秀な人材を巡る獲得競争が激化している。また、品質を著しく向上させた中国製品との市場での直接競合も厳しさを増している。

BCG経済モデルとの統合

Thailand 4.0の補完戦略として2021年に採択されたBCG経済モデル(バイオ経済、循環型経済、グリーン経済)は、地方経済の活性化と格差是正の鍵を握っている。多くのSカーブ産業が都市部の高度化を目指すのに対し、BCGモデルは農業や生物資源に光を当て、地方の所得向上を直接的な目標としている。

世界銀行もBCGへの移行がタイのGDPを押し上げ、新たな雇用を創出する可能性があると評価している。農産物にバイオ技術で付加価値を付け、廃棄物を減らして資源を再利用する循環型経済の構築は、バンコク首都圏と地方の経済格差縮小に寄与することが期待されている。

政治的安定性への懸念

Thailand 4.0の最大のリスク要因は慢性的な政治の不安定性である。1932年の立憲革命以降、13回もの軍事クーデターが成功するなど、政権が頻繁に交代し政策の継続性が損なわれる歴史を繰り返してきた。

近年でも、憲法裁判所による首相の職務停止命令や連立政権の離反など、政局は常に流動的だ。このような政治リスクは投資家の信頼を著しく損ない、特にEECのような官民連携を伴う超長期プロジェクトの予算執行や計画の継続性に深刻な脅威を与えている。

今後の展望と課題

BKK IT Newsとしての見解では、Thailand 4.0は2036年の「高所得国入り」という野心的な目標達成は困難である可能性が高い。政治の不安定性、深刻な人材不足、インフラプロジェクトの遅延という3つの構造的課題が解決されない限り、計画は期待されたペースでは進まないだろう。

しかし、この戦略が完全に失敗に終わるわけではない。地政学的な追い風を受けた投資誘致は継続し、港湾や工業団地開発など比較的進めやすいプロジェクトは完成するだろう。デジタル化も消費者レベルでは着実に進展している。

重要なのは、政府の「実行能力」とタイ社会の「適応能力」の向上である。前者は政治的安定を保ち、複雑な大規模プロジェクトを計画通りに推進する能力。後者は企業が新たな技術を導入し、労働者個人が新たなスキルを学ぶ能力である。これら両輪の強化なくして、真の産業高度化は達成できない。

Thailand 4.0は理想的な設計図を描いた。今後のタイを分析する上では、この設計図を実現するための基盤整備がどの程度進むかが、最も重要な観測指標となるだろう。

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