タイ商業省が8月6日に発表した7月のインフレ率は前年同月比-0.70%となり、4ヶ月連続のマイナス圏を記録した。この数字は市場予想の-0.40%を大幅に下回る過去17ヶ月で最大の下落幅だ。政府は「デフレではない」と強調するものの、中国製品の大量流入と政策的な補助金が引き起こす構造的な物価下落圧力は、タイ経済に深刻な影響をもたらしている。
政府の楽観論と厳しい現実
タイ商業省のプンポン・ナイヤナパコーン貿易政策戦略局長は、変動の激しい品目を除いたコア・インフレ率が+0.84%とプラス圏を維持していることを根拠に、「需要崩壊を伴う本格的なデフレではない」と主張している。
確かに技術的な定義では正しい。今回の物価下落は主にエネルギー価格と生鮮食品価格の下落という供給サイドの要因によるものだ。ガソリン・ディーゼル価格は前年同月比で-10.2%、野菜・果物価格は-9.4%の大幅な下落を記録した。
しかし、この楽観論には重要な見落としがある。コア・インフレ率は6月の+1.06%から7月の+0.84%へと明確に鈍化しており、エネルギー補助金という特殊要因を除いても物価上昇圧力が弱まっている。
マイナスインフレの歴史的背景
タイがマイナスインフレを経験するのは今回が初めてではない。世界金融危機後の2009年には-0.9%、コロナ禍の2020年には-0.85%を記録している。
今回の状況が過去と大きく異なるのは、政府による強力な価格介入が加わっている点だ。タイ中央銀行(BoT)は2022年8月から利上げサイクルを開始し、政策金利を0.50%から2.50%まで引き上げた。その後、景気とインフレの減速を受けて2025年に入り立て続けに利下げを実施し、現在は1.75%となっている。
しかし、6月の金融政策委員会では追加利下げの期待に反して据え置きを決定した。理由として「将来の不確実性に備え、政策余地を温存するため」と説明されており、BoTが限られた政策手段を温存したいジレンマに陥っていることを示している。
中国要因が引き起こす「輸入デフレ」
タイ経済が直面するもう一つの強力な物価下方圧力は、中国からの安価な輸入品の大量流入だ。米中貿易摩擦の激化や中国国内の過剰供給を背景に、中国製品がタイ市場に流れ込んでいる。
2025年の最初の5ヶ月間だけで、タイの対中貿易赤字は過去最高の7,680億バーツ(約225億ドル)に達した。特に問題となっているのは、タイ国内で生産される同種の製品と比較して20%から40%も価格が低い消費財だ。
この「輸入デフレ」とも呼べる現象は、国内の物価全体に強力な下方圧力をかけるだけでなく、価格競争力の低いタイ国内の中小企業(SME)の経営を直接圧迫している。調査によれば、SMEの70.9%が中国製品から何らかの悪影響を受けており、事業縮小や廃業のリスクが高まっている。
統計と実感の乖離が示す深刻な問題
総合インフレ率がマイナスであるにもかかわらず、多くのタイ国民が生活費の高騰を実感している。The Bangkok Insightの世論調査では、国民の65.4%が新内閣に対して「生活費・経済問題の解決」を最優先事項として求めている。
この乖離の原因は、CPIの構成内容にある。カシコンリサーチセンターによると、CPIを構成する品目のうち約半数は依然として前年比で価格が上昇している。外食や調理済み食品、家賃、医薬品といった消費者が日常的に頻繁に支出する項目だ。
総合CPIは、政府の補助金によって大幅に下落したエネルギー価格に強く引きずられている。しかし、人々の生活実感は日常的な支出項目の価格動向に左右されるため、「統計上は物価が下がっているのに、生活は苦しくなる一方だ」という感覚が広がっている。
家計債務問題という「時限爆弾」
BKK IT Newsとしての見解では、現在のマイナスインフレは単なる統計上の現象を超えた深刻な問題だ。特に懸念されるのは、GDP比で約90%という異常に高い水準にある家計債務との相互作用だ。
物価が上昇しない状況では、名目所得の伸びが期待できない一方で、債務の額面金額は変わらない。これにより債務の実質的な負担が増大し、返済がより困難になる「債務デフレ」現象が発生する。
この高水準の債務は金融政策の足枷ともなっている。BoTが利上げを行おうとしても、債務者の返済能力が急激に悪化し、金融システム不安を引き起こしかねない。高い債務返済負担は家計の可処分所得を圧迫し、消費を抑制する。これが需要サイドの弱さを通じて低インフレを招き、さらに実質債務負担を重くするという悪循環を生み出している。
企業が直面するトリプル・プレッシャー
タイ企業、特に中小企業は「三重苦」に直面している。第一に安価な中国製品との価格競争、第二に国内需要の低迷、第三に政府が進める最低賃金引き上げによる人件費上昇だ。
大企業や輸出企業はグローバルなサプライチェーンに組み込まれているため、国内の停滞から受ける影響は比較的小さい。しかし、世界経済の減速や貿易摩擦の激化は、これらの企業にとっても大きなリスクとなる。
低所得者層は政府による電気・燃料費の補助金から短期的な恩恵を受けるものの、支出に占める割合が高い食費や家賃の価格は上昇傾向にあり、実質的な生活苦は緩和されにくい。高水準の債務を抱える層は、所得が伸び悩む中で返済負担が増し、極めて脆弱な立場に置かれている。
「停滞の罠」への警鐘
主要国際機関は、タイ経済が2025年も緩やかな回復を続けると予測している。世界銀行は2.9%、IMFは2.9%、アジア開発銀行は2.8%の成長率を見込む。牽引役は観光業の持続的な回復と政府の景気刺激策だ。
しかし、これらの予測には重要なリスクが潜んでいる。米国の関税政策をはじめとする世界的な貿易摩擦の激化、主要な輸出先である米国や中国の景気減速、そして国内の構造問題が成長の下振れリスクとなる。
各機関は、インフレ率が2025年もBoTの目標レンジ(1.0%~3.0%)の下限付近の低い水準で推移すると見ている。タイ商業省も第3四半期のインフレ率を-0.5%と予測し、プラスに転じるのは年末の第4四半期になるとの見通しを示している。
企業への提言
現在の状況を踏まえ、企業は以下の戦略的対応を検討することが重要だ。
中小企業は、安価な輸入品との価格競争から脱却するため、付加価値向上や差別化戦略に注力すべきだ。技術導入支援や資金調達アクセスの改善を積極的に活用し、競争力強化を図る選択肢がある。
大企業は、国内需要の低迷を見据えて海外市場での競争力強化を選択肢として検討できる。また、中小企業との連携強化によりサプライチェーン全体の効率化を図る戦略も考えられる。
財務面では、低金利環境を活用した設備投資や事業拡張の選択肢がある一方で、家計債務問題による消費低迷の長期化リスクを織り込んだ慎重な経営判断が求められる。
タイ経済は「低成長・低インフレの罠」に陥る重大なリスクに直面している。高い家計債務が国内需要を抑制し、それが低成長と低インフレを招き、低成長ゆえに所得が増えず債務を返済できないという自己増殖的な悪循環だ。短期的な対症療法だけでは脱却が困難な、根深い構造的問題への長期的な取り組みが不可欠となっている。
参考記事リンク
- Thailand records another negative inflation reading in July – CNA
- เงินเฟ้อ ก.ค.68 ลด 0.70% ลงต่อเนื่องเป็นเดือนที่ 4 ติดต่อกัน – Thaipost.net
- อัตราเงินเฟ้อทั่วไป เดือนกรกฎาคม 2568 ลดลงร้อยละ 0.70 (YOY)
- เงินเฟ้อไทยเดือนก.ค 2568 ติดลบสูงสุดในรอบ 17 เดือนที่ -0.70% YoY ทั้งปี – Kasikorn Research
- Thailand-China Trade Deficit Hits Record $23.6 billion in the first five months of 2025