2025年7月のタイ・カンボジア国境紛争は、わずか5日間の軍事衝突だったが、タイ企業のカンボジア事業戦略を根本から見直すきっかけとなった。国境貿易の完全停止、労働者の大量帰国、サプライチェーンの寸断という三重の衝撃により、多くの企業が事業継続計画の抜本的な修正を余儀なくされている。さらに、デジタル戦争時代の到来で見られたように、サイバー攻撃という新たな脅威も企業インフラに深刻な影響を与えた。この危機を受け、タイ政府は企業のカンボジアからの生産拠点移転を支援する優遇措置を導入し、一方で企業は市場の多角化戦略を加速させる動きを見せている。
歴史的対立の再燃と経済的衝撃
今回の紛争は、1世紀以上にわたるプレアヴィヒア寺院周辺の領土問題に端を発している。5月28日の小規模な銃撃戦から始まり、6月の経済制裁、そして7月24日の本格的軍事衝突へとエスカレートした。この過程で、両国は国境検問所を全面閉鎖し、年間1,740億バーツに上る二国間貿易が完全に停止した。
紛争の経済的影響は即座に現れた。タイ財務省の試算では少なくとも100億バーツの損失が発生し、民間調査機関は月間最大170億バーツの損失を予測している。観光業では5,000件以上のホテル予約キャンセルが発生し、東北部の稼働率は10~15%まで落ち込んだ。金融市場も反応し、タイバーツは3年ぶりの高値から下落に転じている。
最も深刻な影響は労働力不足だ。紛争前にタイで就労していた約120万人のカンボジア人労働者のうち、65%にあたる78万人が帰国した。軍事衝突による恐怖とプロパガンダが労働者の大量帰国を引き起こし、建設業や農業など労働集約型産業では深刻な人手不足が発生している。このタイからカンボジア人労働者が大量帰国の状況は、生産活動に大きな支障をきたしている。
企業の対応戦略に明暗
危機に直面した企業の対応は、事業内容とカンボジアへの依存度により大きく分かれた。
カラバオ・グループは、カンボジアを主要市場とする同社にとって直撃となったが、在庫を3倍に増強し、カンボジア国内でのエナジードリンク工場建設を前倒しする積極的な危機管理を展開した。一方、パンアジア・フットウェアはカンボジア人労働者の70%帰還により生産が20~30%減少し、ラオスからの労働者受け入れやフィリピン、インドへの市場拡大を検討せざるを得なくなった。
対照的に、サイアム・グローバル・ハウスは影響をほとんど受けなかった。同社は紛争発生以前から、カンボジア支店への商品供給を中国や現地生産品に切り替えていたためだ。タイ・プレジデント・フーズも、主力商品の即席袋麺をプノンペンの自社工場で生産していたため、市場への影響は皆無だった。
政府の「リショアリング」支援策
この状況を受け、タイ投資委員会(BOI)は8月8日、カンボジアからタイへの生産拠点移転を支援する優遇措置を承認した。中古機械の輸入関税免除、法人所得税の免除、申請期限を2026年末までとする時限措置により、企業の国内回帰を促進している。
この政策は、今回の危機を国内産業基盤強化の機会と捉える政府の戦略的意図を反映している。「タイ+1」モデルの脆弱性が露呈したことで、重要産業の国内生産比率向上が急務となったためだ。
労働市場の構造的問題が浮上
カンボジア人労働者の大量帰国は、タイの構造的労働問題を白日の下に晒した。急速な少子高齢化により2060年までに生産年齢人口が約30%減少すると予測される中、これまでタイ経済は近隣諸国からの安価な労働力に依存することで問題を先送りしてきた。
今回の危機は、この依存構造がいかに脆弱かを示した。労働力不足は一時的な問題ではなく、タイが「タイランド4.0」戦略で掲げる高付加価値・自動化経済への転換を加速せざるを得ない状況を作り出している。
今後の展望と戦略的選択
停戦合意により軍事的緊張は緩和されたが、根本的な領土問題は未解決のまま残っている。企業は3つのシナリオを想定した戦略策定が求められる。
第一は関係修復シナリオだ。経済的相互依存と外部圧力により、貿易関係が紛争前の状態に回復する可能性がある。第二は長期対立シナリオで、表面的な停戦は維持されるものの、経済関係は冷え込んだまま推移する。第三は構造的分離シナリオで、今回の危機を教訓に企業がカンボジア依存からの脱却を本格化させる。
BKK IT Newsとしては、第三のシナリオが最も現実的と考える。企業の危機管理能力の差が明確になった今、成功企業の共通点は事前のリスク分散にあった。サプライチェーンの多様化、市場の多角化、現地生産体制の構築が、地政学的ショックに対する最も有効な防御策であることが実証されている。
企業への戦略的示唆
今回の危機から得られる教訓は明確だ。第一に、地政学的リスクを織り込んだ事業継続計画の策定が不可欠である。第二に、単一国への過度な依存は避け、供給源と市場の分散を図る必要がある。第三に、重要な生産機能については可能な限り現地化を進める選択肢を検討すべきである。
タイ政府のBOI優遇措置は、生産拠点の国内回帰を検討する企業にとって絶好の機会となる。一方で、市場の多角化を図る企業にとっては、フィリピンやベトナムなど他のASEAN諸国への展開加速が有力な選択肢となるだろう。
地政学的リスクが常態化する時代において、効率性だけでなく強靭性を重視した事業戦略への転換が、企業の生存と成長を左右する決定的要因となっている。
参考記事リンク
- Thailand-Cambodia July 2025 border conflict and its context – Silobreaker
- 2025 Cambodia–Thailand border conflict – Wikipedia
- Thailand Launches Airstrikes Amid Border Dispute with Cambodia – CSIS
- BOI introduces tax breaks for machinery relocation from Cambodia to Thailand – Nation Thailand
- Thai Businesses Overhaul Cambodia Plans as Border Clashes Escalate – Nation Thailand