タイの電気自動車(BEV)市場が前例のない成長を続けている。日本貿易振興機構(JETRO)発表によると、2025年7月のタイにおけるバッテリー式電気自動車(BEV)乗用車の新規登録台数が前年同月比76.9%増という驚異的な成長を記録した。この急成長の裏で、中国系ブランドが市場の91.3%を支配する構造変化が進行しており、日系企業に根本的な戦略転換を迫っている。
中国勢の圧倒的市場支配と政府の対応
7月のBEV市場シェアを見ると、中国系ブランドの圧倒的優位性が浮き彫りになる。BYDが2,999台(シェア29.4%)でトップに立ち、SAIC モーター・CP(MG)が2,556台(同25.0%)で続く。長安汽車(CHANGAN)も751台(同7.4%)を記録し、中国系ブランド全体で9,115台という圧倒的な台数を達成した。
この市場支配は突発的な現象ではない。2025年5月にはBYDがいすゞを抜いてタイ自動車市場全体で第3位に浮上し、6月にはホンダをも上回って第2位に躍進している。
しかし、タイ政府は中国勢の一方的な市場制圧に対抗する政策転換を検討している。「脱中国依存」タイが仕掛けるEV税制革命 ~現地調達率で税率決定、自動車産業の勢力図変化必至~で詳しく解説したように、財務省はEV物品税を現地部品調達率に連動させる新制度を検討しており、中国製完成車輸入への依存脱却を図っている。この政策により、中国ブランドにも現地調達の圧力が高まる構造となっている。
政策が生んだ急成長エンジン
この急成長の背景には、タイ政府による強力な政策支援がある。2030年までに国内自動車生産の30%をゼロエミッション車にする「30@30」ビジョンの下、EV3.5パッケージが消費者に最大10万バーツの補助金を提供している。
政府のインセンティブは需要喚起だけでなく、投資誘致の「てこ」として機能している。補助金を受けて完成車を輸入したメーカーには、輸入台数の2~3倍の国内生産が義務付けられており、これまでに40億ドル以上の投資を誘致した。
2025年7月にはタイ投資委員会(BOI)が政策を調整し、輸出用BEV1台を国内生産義務の1.5台分として計算する柔軟性を導入した。この調整により、将来の供給過剰リスクを回避しながら、タイを東南アジアの輸出拠点として位置づける戦略が明確になった。
日系企業の対応と課題
日系企業は慎重な多角戦略を採用している。トヨタは2025年末までにBEVピックアップトラックの投入を計画し、ホンダは将来のEV生産に向けて工場統合を進める。いすゞもD-MAX EVの生産を開始したが、当面は欧州輸出が優先される。
しかし、ハイブリッド車(HEV)の好調が命綱となっている。2024年にHEV販売は49.5%成長を記録し、日系企業がBEV開発を進める間の重要な時間稼ぎとなっている。この「ハイブリッドの橋」がどれだけ長く機能するかが、日系企業の生存を左右する。
産業構造への深刻な影響
BEVへの転換は、タイ自動車産業の根幹を揺るがしている。内燃機関(ICE)車の部品数約3万個に対し、BEVは1,500~3,000個と大幅に少ない。約2,500社の部品サプライヤーのうち、エンジン関連に特化した816社が存続危機に直面している。
タイ開発調査研究所(TDRI)は、この変化が40万人以上の雇用に深刻な影響を与えると警告している。組立工場、部品製造、整備サービスまで含めた広範囲な職種でリスクが高まっており、国家的な対応が急務となっている。
インフラと消費者課題
急速な普及の一方で、充電インフラの不足が深刻な課題となっている。ABeam Consultingの調査では、消費者の72%が「公共充電インフラの不足」をBEV購入しない理由に挙げている。
特にバンコクの集合住宅では、EV充電設備を提供するプロジェクトがわずか3%に留まる。この「コンドミニアムの難問」は、最大都市圏でのBEV普及における最大のボトルネックとなっている。
さらに、中国ブランドのアフターサービス体制の脆弱性も問題化している。スペアパーツ不足と長い修理時間が消費者の不満を高めており、長期的なブランド信頼性に影響を与える可能性がある。
企業が取るべき対応策
この劇的な変化に対し、企業は戦略的選択を迫られている。中国系メーカーは価格競争から脱却し、信頼できるアフターサービス体制の構築を最優先とすべきである。一方、日系企業は広範で信頼性の高いサービスネットワークを活用し、BEV投入時の差別化要因として明確に打ち出す必要がある。
部品サプライヤーにとっては、従来の機械部品からバッテリー、パワーエレクトロニクスといった新分野への転換が生存の鍵となる。政府もEV部品の現地調達促進策を設けているが、変化のスピードに対応できるかは各社の適応力にかかっている。
今後の展望
タイのBEV市場は単なる技術転換を超えた産業革命の様相を呈している。BKK IT Newsの分析では、この変化はタイを東南アジアのEV生産ハブに押し上げる一方、既存産業の大規模な再編を伴うと予測される。
成功の鍵は、政策支援による需要創出から、充電インフラ整備と労働力再訓練への重点転換にある。また、使用済みバッテリーのリサイクルや中古EV市場の育成など、持続可能なエコシステム構築が長期的な競争力を左右するだろう。
タイのEV革命は始まったばかりである。この大変革期を乗り切るためには、政府、企業、消費者すべてが従来の枠組みを超えた戦略的思考と迅速な行動が求められている。
参考記事リンク
- 7月の乗用車BEV登録台数は前年同月比76.9%増(タイ) | ビジネス短信 ―ジェトロの海外ニュース – ジェトロ
- 上半期の乗用車BEV登録台数、前年同期比52.0%増の5万6973台に拡大(タイ) – ジェトロ
- Thailand’s electric vehicle market projected to grow by 40% in 2025
- รถ EV เขย่าโครงสร้างอุตสาหกรรมยานยนต์ แรงงานรถสันดาปเสี่ยงตกงาน – TDRI
- EV Charging as the Bottleneck for EV adoption: Evaluating the Current Infrastructure in Thailand – ABeam Consulting