ペートンターン首相職務停止の背景 ~タイ政治危機が経済に与える影響~

ペートンターン首相職務停止の背景 ~タイ政治危機が経済に与える影響~ タイ国際外交・貿易
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2025年7月1日、タイのペートンターン・シナワット首相が憲法裁判所によって職務停止処分を受けた。この措置は、カンボジアのフン・セン上院議長との電話会談の内容が流出し、倫理規定違反の申し立てがなされたことに起因する。タイの政治的不安定性が再び表面化した今回の事態は、同国に進出する日系企業にとって重要な転換点となる可能性がある。

職務停止に至る経緯

憲法裁判所は7月1日、ペートンターン首相に対する倫理規定違反の申し立てを全会一致で受理し、7対2の多数決で首相職務の即時停止を決定した。首相には弁護のための証拠提出に15日間の猶予が与えられている。

この決定の引き金となったのは、6月15日にペートンターン首相とカンボジアのフン・セン上院議長との間で行われた17分間の私的な電話会談の流出だった。会談の音声は6月18日にオンラインで最初に流出し、その後フン・セン自身が全会話をFacebookで公開した。

録音された会話で、ペートンターン首相はフン・センを「叔父さん」と呼び、タイの陸軍司令官について批判的な発言を行った。また、フン・センが何かを望むなら「私が対処します」と約束する内容も含まれていた。

国境紛争が背景に

この電話会談は、タイ・カンボジア国境での緊張が高まる中で行われた。2025年5月28日、国境付近の係争地で武力衝突が発生し、カンボジア兵1名が死亡した。双方が相手が先に発砲したと非難し、両国は部隊を増強、国境検問を制限した。

プレアビヒア寺院を巡る両国の紛争は長年の懸案事項だ。11世紀に建設されたこの寺院の所有権は、1962年の国際司法裁判所の判決でカンボジアに与えられたが、周辺地域の領有権を巡る争いは続いている。

国民の強い反発

電話会談の内容が公になると、国民の間で強い反発が起きた。6月28日と29日には、バンコク中心部で数千人の抗議者が結集し、ペートンターン首相の辞任を要求した。抗議者たちは「ウーイン、辞任せよ」と叫び、一部は首相を「裏切り者」「売国奴」と非難するプラカードを掲げた。

世論調査では首相の支持率が急落し、国民が政府の対応に強い不満を抱いていることが明らかになった。連立政権で2番目に大きな政党であったプムジャイタイ党は、録音が「タイの主権、領土、利益、そして軍に影響を与えた」として連立からの離脱を決定した。

シナワット家の政治的サイクル

今回の危機は、シナワット家が率いる政府が繰り返し直面してきた政治的パターンの一部と見ることができる。タクシン・シナワット元首相(2001-2006年)は2006年の軍事クーデターで失脚し、その妹のインラック元首相(2011-2014年)も法的措置と軍事クーデターによって政権を追われた。

ペートンターン首相はタクシンの末娘であり、インラックの姪にあたる。シナワット家が率いる政府は、選挙で勝利を収めるものの、最終的には司法や軍、街頭デモといった議会外の手段によって排除されるという「憂鬱なほどおなじみのサイクル」を繰り返してきた。

憲法裁判所の役割拡大

タイの憲法裁判所は、政治プロセスにおいて重要な役割を担っている。2006年のクーデター以降、裁判所の役割は大幅に拡大し、シナワット系の政党や首相に深刻な影響を与える判決を繰り返し下してきた。

2008年にはサマック・スンダラウェート首相を利益相反で解任し、2024年10月にはペートンターン首相の前任者であるセーター・タウィーシンを「不正行為」を理由に解任した。批判者たちは、裁判所が「王党派の確立された勢力の砦」として機能していると指摘している。

経済への深刻な影響

政治的不安定性は、タイ経済に深刻な影響を与えている。タイ商工会議大学は、政治的不確実性と国境紛争を理由に、2025年のGDP成長率予測を3%から1.7%に下方修正した。他の予測機関も1.3%から2%の範囲で予測している。

国境危機は国境貿易に深刻な損害を与えており、1日あたり5億バーツの損失と推定されている。政治的混乱は予算執行を数ヶ月遅らせる可能性があり、政府支出と経済刺激策に影響を与える。

観光業も政治的不確実性の影響を受けており、国際的な観光客到着数が減少している。投資決定の遅延も懸念され、公共部門と民間部門の両方で新たな資本流入が阻害される可能性がある。

日系企業への影響

日本はタイにとって最大の投資国であり、1,500社以上の日本企業がタイで事業を展開している。この大規模な存在は、タイの政治的および経済的安定が日本企業にとって直接的な関心事であることを示している。

歴史的に、2006年と2014年の軍事クーデター後、日本は当初遺憾の意を表明したものの、経済的結びつきを優先し、迅速に二国間協力関係を維持する方向へとシフトした。日本企業は良好な二国間関係の維持を求める圧力をかけ、日本政府は実用的な外交政策を取ってきた。

現在の政治的不確実性は、新たな日本からの投資決定を遅らせ、拡大計画に影響を与える可能性がある。タイ・カンボジア国境の緊張が長引けば、国境地域に事業拠点や調達先を持つ日本企業のサプライチェーンにも影響を与える可能性がある。

今後の展望

タイは今後も政治的な不確実性が続く可能性が高い。連立政権のわずかな過半数、国民の信頼の喪失、継続的な法的課題は、政府が脆弱な状態にあることを示している。

軍事介入は公式には否定されているが、歴史的な「クーデターの影」は依然として存在し、政治的計算に影響を与えている。民選政府と保守的既成勢力との間の未解決の緊張は、今後もタイ政治を特徴づけるだろう。

日系企業にとっては、高まる政治的リスクと政策変更の可能性を考慮に入れた戦略が必要となる。事業の多様化と強固なリスク管理戦略は引き続き重要だ。既存の事業は回復力を示しているが、サプライチェーンの混乱や規制環境の変化に対する警戒は欠かせない。

課題があるにもかかわらず、タイは経済規模、地理的位置、地域サプライチェーンにおける役割を考慮すると、日本にとって東南アジアにおける戦略的に重要なパートナーであり続ける。強固な二国間関係を維持することは、日本のより広範なインド太平洋戦略にとって不可欠だ。

今回の政治危機は、タイの構造的な政治問題を浮き彫りにした。日系企業は短期的な混乱に備えつつ、長期的な視点でタイとの関係を維持していく必要がある。