タイの通信大手Advanced Info Service(AIS)が40億バーツを投じ、タイ初となる国産ハイパースケールクラウドサービス「AIS Cloud」を立ち上げた。AWS、Google、Microsoftなど外資系クラウド大手がタイ市場に相次ぎ参入する中、AISは「データ主権」を前面に押し出し、タイ国内でのデータ保持と法令準拠を強みとして差別化を図る。2028年には951億バーツに達すると予測されるタイのAI市場を狙い、国内企業のデジタル変革を支援する基盤として期待される。
AISは6月26日、Oracle Cloud Infrastructure(OCI)を基盤とするAIS Cloudの正式サービス開始を発表した。タイ国内のデータセンターで運営され、タイの法律に完全準拠することを最大の特徴とする。同社は「タイは長期的な技術主権とレジリエンスを確保するために、自国のAI能力を持つべき」と強調。タイ人が所有・運営するデジタルインフラが国家発展の礎になるとの信念を示した。
激化するクラウド市場競争
タイのデータセンターおよびクラウドサービス市場には、国内外から巨額の投資が流入している。投資委員会(BOI)によれば、これまでに37件、総額985億バーツを超える投資奨励を認可済みだ。特に外資系では、Amazon Web Servicesが2037年までに2000億バーツ(第1フェーズで250億バーツ)、Alibaba Cloudが40億バーツ以上を投資している。
表1: タイの主要データセンター・クラウドサービス投資(BOI認可案件)
企業名 | 国籍 | 投資額(バーツ) | 事業地(主なもの) |
---|---|---|---|
Amazon Web Services (AWS) | 米国 | 2000億 (15年間総額) | バンコク、サムットプラカン、チョンブリ、ラヨン |
NextDC | オーストラリア | 137億 | 不明 |
STT GDC | シンガポール | 45億 | 不明 |
Evolution Data Center | シンガポール | 40億 | 不明 |
Supernap (Switch) | 米国 | 30億 | 不明 |
Telehouse | 日本 | 27億 | 不明 |
One Asia | 香港 | 20億 | 不明 |
Alibaba Cloud | 中国 | 40億以上 | 不明 |
Huawei Technologies | 中国 | 30億以上 | 不明 |
True Internet Data Center | タイ | 不明 | 不明 |
Internet Thailand | タイ | 不明 | 不明 |
Gulf Energy Development | タイ | 不明 | 不明 |
AIS | タイ | 40億 (今回) | タイ国内 |
新型コロナウイルス感染症によるロックダウンは、リモートワークやEコマースの拡大を加速させ、データセンターサービスへの需要を大幅に押し上げた。企業のデジタル変革と消費者のデジタル取引拡大により、市場成長は予想を上回るペースで進んでいる。
データ主権で勝負
AIS Cloudの最大の差別化要因は、データ主権の確保にある。同サービスはタイ国内のデータセンターで運営され、データの越境移転を行わない。デジタル経済振興庁(depa)が認定するdSURE 3-Star認証をタイで初めて取得し、データ主権と安全な国内データ保存を保証する最高レベルの認証を受けた。
タイでは通信事業者に1年間の通信記録保存義務があり、クラウドサービス事業者にもユーザー情報の保存義務が課されている。個人情報保護法(PDPA)やサイバーセキュリティ法といったデータ規制も存在し、国内でのデータ保持が重要視されている。AISはこれらの規制要件への完全対応を前面に押し出し、機密データを扱う政府機関や金融機関からの信頼獲得を狙う。
AISのチーフ・エンタープライズ・ビジネス・オフィサーであるPhupa Akavipat氏は「タイ人が所有・運営するデジタルインフラこそが、デジタル時代の国家開発の礎である」と強調。単なる技術提供を超え、国家のデジタル主権強化への貢献を訴求している。
AI市場の急成長を狙う
AIS Cloudが狙うのは、急拡大するタイのAI市場だ。同市場は2023年の122億バーツから2028年には951億バーツへと約7.8倍の成長が予測されている。AISは人工知能、機械学習、ビッグデータなどの新興技術をサポートするハイパースケールクラウドとして、この成長を取り込む戦略だ。
技術基盤にはOracle Cloud Infrastructure(OCI)とOracle Alloyを採用。100以上のOCIサービスと最新のAI機能へのアクセスを提供し、専用、パブリック、ハイブリッドクラウド環境全体でサービスを展開する。AISは自社開発ではなく、実績あるOracleの技術を活用することで、開発期間の短縮と技術的信頼性の確保を両立させた。
ローカライズで中小企業を支援
AIS Cloudは、タイ企業向けに包括的なローカライズサービスを提供する。タイ語での契約締結、バーツ建て請求、タイ人専門家による現地語サポートにより、言語や通貨、文化的な障壁を解消する。バーツ建て請求は為替変動リスクを軽減し、特に中小企業の予算計画安定化に寄与する。
さらに、depaのデジタルサービスカタログによれば、AIS Cloudの法人顧客は税制優遇措置の恩恵を受けることができる。これはクラウド導入の経済的インセンティブとなり、中小企業のデジタル変革を後押しする要因となる。
AISは「AIS Infinite SMEs」というイニシアティブを通じ、中小企業のデジタルスキル向上とバックエンドインフラ強化を支援している。タイ産業連盟(FTI)との連携により「Go Digital & AI」戦略を推進し、タイ製品・サービスの競争力強化を目指す。
通信からテクノロジー企業への転換
AISにとって今回のクラウド事業は「新たなSカーブ成長エンジン」と位置づけられる。同社は元々タクシン元首相が設立した携帯電話キャリアで、現在はシンガポールのテマセク・ホールディングス傘下にある。2015年に光ファイバー通信でISP事業に参入し、後発ながら8.5%のシェアを獲得した。
全国95%をカバーする5Gネットワークを基盤に、従来の通信サービスを超えてクラウドインフラに注力する。Oracle CloudやAWSとの提携を通じてエッジコンピューティング能力を強化し、Global Switchとの合弁会社GSADataを通じてタイ最大のデータセンターキャンパス構築も計画している。
AISのCEOは、34年以上にわたるデジタル技術インフラ開発の実績を強調し、Oracle Alloyとの提携がAISを「TelcoからTechcoへ」変革させると述べた。通常年間250億〜300億バーツを全体のインフラ開発に投資する同社にとって、今回の40億バーツ投資は既存ビジネスモデルとは異なる領域での成長を牽引するものとなる。
政府の強力な後押し
AIS Cloudは、タイ政府の国家クラウド政策と完全に整合している。デジタル経済社会省(MDES)およびデジタル経済振興庁(depa)が強力に支持し、タイランド4.0政策が目指すデジタル経済への転換を支える基盤として期待される。
タイランド4.0は「中所得国の罠」回避と先進国入りを目指す国家戦略で、デジタル技術を活用した高成長を重要な柱としている。政府はビッグデータ基盤整備、電子政府化、クラウド技術導入を行政の主要課題に位置づけており、AISの取り組みはこれらの目標達成に直結する。
今後の展望
AIS Cloudの成功は、タイのデジタル変革を大きく左右する可能性がある。国内でのデータ保持とサイバーセキュリティ強化は、国家レベルでのデジタルレジリエンスを高める。政府機関や規制産業でのクラウド利用が促進され、AI・機械学習技術の普及とイノベーション創出が加速するだろう。
中小企業やスタートアップにとっては、ローカライズされたサービスと税制優遇により、クラウドインフラへのアクセス障壁が大幅に下がる。これにより国内産業全体の底上げと、国際市場におけるタイ企業のプレゼンス向上が期待される。
ただし、グローバルクラウドプロバイダーとの競争は今後も激化する。技術の進化と規制環境の変化に迅速に対応し続ける柔軟性が、AISの長期的成功の鍵となるだろう。タイがASEAN地域のデジタルハブとしての地位を確立する上で、AIS Cloudの動向は重要な試金石となる。