企業のクラウド選定戦略 マルチクラウドではなく、シングル・プライマリ戦略の推奨

企業のクラウド選定戦略:マルチクラウドの隠れたリスクとシングル・プライマリ戦略の優位性 IT
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クラウド戦略を見直す時期が来ている。マルチクラウドの複雑性とコストが企業経営を圧迫する一方、シングル・プライマリ戦略がもたらす深い専門性と効率性に注目が集まっている。2025年7月26日現在、企業が直面する選択の分岐点を冷静に分析する必要がある。

「マルチクラウド神話」の正体

マルチクラウド戦略は企業に魅力的な約束を与える。ベンダーロックインの回避、各クラウドの最良機能の活用、リスク分散などがその代表例だ。実際に、Flexera社の調査では89%の企業がマルチクラウド戦略を採用している。

しかし現実は厳しい。複数プラットフォームの管理には、AWS、Azure、GCPそれぞれに精通した専門家チームが必要となる。人件費とトレーニングコストが単純に倍増する構造だ。データ転送料金も重い負担となる。クラウド間でデータを移動させる際の高額な「エグレス料金」は、年間数千万円規模に膨らむケースが珍しくない。

運用の複雑化がもたらす最大の損失は「機会費用」だ。限られたエンジニアリングリソースを複数プラットフォームの基本運用に分散させれば、どのクラウドでも深い専門知識を構築できない。その結果、AI/ML、サーバーレス、特化型データベースといった競争力を高める高度機能を十分活用できなくなる。

歴史が示すマルチクラウドの必然性と限界

マルチクラウドの普及には明確な歴史的背景がある。2006年のAWS登場から始まった現代クラウド時代は、当初シングルクラウドが主流だった。しかし2013年のDocker、2014年のKubernetesがアプリケーションの可搬性を飛躍的に向上させた。技術的にマルチクラウドが実現可能になったのだ。

同時期に企業のCIOレベルでベンダーロックインへの懸念が高まった。米政府も2018年に「Cloud First」から「Cloud Smart」戦略へ方針転換し、マルチクラウドを視野に入れた洗練されたクラウド活用を推奨した。

現在のマルチクラウド市場は年率27%超の高成長を続け、2034年には1,471億ドル市場に達する予測だ。この巨大市場を背景に、SIerやコンサルティングファームがマルチクラウドを積極的に推進している。複雑性の解決策として自社サービスを販売するビジネスモデルが確立されているのが実情だ。

地政学的リスクの新たな複雑性

マルチクラウド戦略を複雑化させる要因の一つが地政学的リスクだ。特に中国系クラウドプロバイダーを利用する際のリスクは深刻である。

中国の国家情報法(2017年施行)は、中国のいかなる組織も国家の情報活動に協力する義務を定めている。Alibaba CloudやTencent Cloudのような中国系プロバイダーが中国政府からデータ提出要求を受けた場合、法的に拒否することは極めて困難だ。データセンターが日本にあっても、運営主体が中国企業である限りこの法的義務から逃れられない。

米国商務省は既にAlibaba Cloudの国家安全保障調査を開始している。2024年には超党派の米上院議員グループがHuawei CloudとAlibaba Cloudの制裁リスト追加を要求した。G42がMicrosoftから投資を受ける際、米国はHuawei製ハードウェア売却を条件とした。中国系クラウドの利用リスクは現実化している。

一方、米国のCLOUD Actは独立した司法府による令状や召喚状といった厳格な法的手続きを要求する。「法の支配」による行政権力へのチェック機能が働く点で、中国の国家情報法とは根本的に異なる。

事業継続性の盲点

マルチクラウドのリスク分散効果にも盲点がある。企業は主要システムをAWSで、バックアップを別のSaaSプロバイダーで構築してリスクを分散したつもりになりがちだ。しかし、そのSaaSプロバイダー自身がAWSを基盤としているケースは非常に多い。

AWSの特定リージョンで大規模障害が発生すれば、主要システムとバックアップシステムが同時に機能不全に陥る可能性がある。見かけ上のプロバイダー分散が、インフラレベルでの「単一障害点」を隠蔽しているに過ぎない。

中小・ニッチプロバイダーには特有の事業継続性リスクがある。Cloud Security Allianceは「ベンチャーキャピタルが出資する小規模SaaSプロバイダーでは事業停止は決して珍しくない」と明確に指摘している。財務的脆弱性、サポート体制の手薄さ、事業撤退時のデータ移行問題などが典型的なリスクだ。

一方で大手プロバイダーへの過度な集中は「システミックリスク」を生む。金融機関や政府機関が少数の大手クラウドに集中すれば、一社の大規模障害が経済活動全体を麻痺させる可能性がある。

マルチリージョン構成という現実的な解

リスク分散を目的とする場合、マルチクラウド構成よりも「マルチリージョン構成」の方が現実的な解になることが多い。同一プロバイダー内の複数リージョンにシステムを分散配置する手法だ。

マルチリージョン構成には明確な利点がある。まず、運用チームは単一プラットフォームの専門知識を深めれば済む。API、管理ツール、運用哲学が統一されているため、複数クラウドで発生する複雑性を回避できる。データ転送料金も同一プロバイダー内であれば大幅に削減される。

災害対策としても実効性が高い。地震、洪水、停電といった自然災害は地域単位で発生するため、東京リージョンとシンガポールリージョンに分散すれば十分な冗長性を確保できる。プロバイダーレベルの障害に対しても、リージョン単位での独立性により一定の保護効果を期待できる。

タイに拠点を置く企業であれば、AWSタイランドリージョンとシンガポールリージョンの組み合わせが典型例となる。2025年に開設されたAWSタイランドリージョンにより、AWS Thailand Region半年検証で示されたように遅延が3分の1に削減された。この効果を活かしつつ、シンガポールリージョンで災害対策を構築する構成が現実的だ。

クラウド戦略決定のフレームワーク

適切なクラウド戦略を策定するには、以下の3軸での自社評価が不可欠だ。

ビジネス目標(Why): コスト削減、市場投入速度、AI/MLイノベーションなど、主目的を明確化する。目的によって最適戦略は異なる。

リスク許容度(How much): 地政学的リスク、事業継続性リスク、ベンダーロックインリスクについて、事業内容とデータ機密性に応じた許容レベルを判断する。

技術的成熟度(Who): IT部門の能力を客観評価する。単一プラットフォームの高度機能を使いこなせる専門家集団か、複数プラットフォームの基本運用で手一杯になる可能性があるかを見極める。

シングル・プライマリ戦略の提言

ほとんどの企業にとって最適解は「シングル・プライマリ」戦略だ。自社ビジネスニーズの8割以上を満たす単一の主要クラウドを選定し、そこにリソースを集中投下する。組織内に深い専門知識を蓄積し、そのプラットフォームの高度機能を最大限活用してイノベーションを加速させる。

プライマリクラウドで対応できない明確かつ正当な理由がある場合に限り、第二、第三のクラウドを限定的に利用する「戦略的マルチクラウド」を検討する。例えば特定の規制要件対応や、プライマリクラウドにない独自技術利用などだ。目的は具体的でなければならない。

クラウドファースト政策を推進するタイでも、タイのクラウドファースト政策がASEANのAIハブ化を実現として政府機関のクラウド移行が進んでいる。政府220機関で75,000の仮想マシンがクラウド移行し、2025年市場規模は670億バーツに達する見込みだ。

今後の企業戦略

マルチクラウドは万能薬ではなく、強力な効果と深刻な副作用を併せ持つ劇薬に例えられる。採用判断は業界の流行やコンサルタントの推奨に流されることなく、自社の戦略、成熟度、リスク許容度を徹底分析した上で慎重に行うべきだ。

管理の複雑性、隠れたコスト、地政学リスク、事業継続性など、多層的で根深いリスクを十分理解し管理する覚悟と能力がないままマルチクラウドに踏み込むことは、クラウドの俊敏性やコスト効率といった恩恵を自ら損なう行為だ。

2025年7月現在、BKK IT Newsとしての見解は明確だ。クラウドの真の価値は利用ベンダー数を増やすことではない。選択した一つのプラットフォームを深く徹底的に使いこなし、その力を自社のビジネス変革エンジンへと昇華させることにある。グローバル競争を勝ち抜くためには、この本質を見失うことなく、真に価値のあるクラウド戦略を構築していくことが求められる。

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