タイAI白書公開~Thailand 4.0実現に向けた国家戦略と製造業変革への道筋~

タイAI白書公開~Thailand 4.0実現に向けた国家戦略と製造業変革への道筋~ AI
AIITデジタルガバナンス

2025年7月22日、タイの電子取引開発庁(ETDA)、タイ開発研究所(TDRI)、そして世界的企業向けソフトウェア大手のSAPが共同で「AIホワイトペーパー」を公開した。この文書は、長年掲げてきた国家ビジョン「Thailand 4.0」を実現するための具体的な実行計画として、大きな注目を集めている。

パンデミック後の転機:10年戦略の集大成

タイのAI戦略の根源は、「中所得国の罠」脱却を目指した2014年以降の長期経済政策にある。従来の低賃金労働に依存した成長モデルが限界に達する中、政府は「より少なく働き、より多く稼ぐ」をスローガンに掲げ、テクノロジーとイノベーション主導の価値創造型経済への転換を決断した。

この10年間で、情報通信技術省をデジタル経済社会省へ改組し、電子取引開発庁(ETDA)やデジタル経済振興庁(DEPA)などの専門機関を設立。2022年7月には内閣承認を得た「国家AI戦略(2022年~2027年)」が策定され、今回のホワイトペーパーはその具体的な実行段階への移行を告げる重要な節目となっている。

特に注目すべきは、2025年6月にバンコクで開催された「第3回AI倫理に関するUNESCOグローバルフォーラム」および「バンコクAIウィーク2025」の成功だ。2万人以上が参加したこれらのイベントで、ペートンターン首相は「AI主権」と「適切な戦場を選ぶ」というコンセプトを明確にした。これは、基盤モデル開発で世界の巨大企業と競うのではなく、タイの強みが生かせる特化型AIモデルの開発に注力すべきだという現実的な戦略方針を示している。

AI導入の現実:18%の厳しい現状

野心的なビジョンとは対照的に、現場の状況は厳しい。ETDAの調査によると、AIを導入済みのタイ組織はわずか17.8%にとどまり、73%もの組織がまだ検討段階に留まっている。経済の屋台骨である製造業では、インダストリー4.0の基準に完全移行できた企業は全体の2%という深刻な遅れを見せている。

この導入障壁として、製造業者の65%が「データ品質の問題」と「不十分なインフラ」を挙げており、AIから価値を引き出す方法への理解不足も指摘されている。一方で、タイのAI市場規模は2024年の480億バーツから2030年には1300億バーツへ、年平均18%の成長が予測されており、高いポテンシャルを秘めた未成熟市場の姿が浮かび上がっている。

SAPとの戦略的提携が切り拓く実践路線

今回のホワイトペーパーで特筆すべきは、SAPとのパートナーシップによる「ビジネスAI」への焦点だ。これは財務、サプライチェーン、人事といった企業の基幹業務プロセスに組み込まれ、適切で信頼でき、責任ある形で活用されるAIを指す。

政府は、AI技術そのものの欠如よりも、既存企業がそれを自社業務に統合する点に大きな課題があることを認識している。SAPの「RISE with SAP」や「SAP Business Technology Platform」といったソリューションは、既存のERPシステムにAIを組み込むために設計されており、すでにSAPを利用する数千のタイ企業に対して、具体的で導入準備の整った道筋を提示している。

製造業変革:300のユースケースが描く未来

ホワイトペーパーは製造業のAI活用について、300以上のユースケースによる広範な可能性を提示している。具体的な効果予測では、需要予測の精度向上によるサービスレベル65%改善、生産性20%向上、機械ダウンタイム53%削減、職場安全性向上による危険行動90%削減、品質管理強化による不良品率99%以上削減、物流コスト最大15%削減などが挙げられている。

これらの数値は、低コスト生産モデルに依存してきたタイ製造業を、高効率・高付加価値の「スマートファクトリー」モデルへ進化させる革命的な変化を意味する。2030年までに製造業のAI導入率を12%から15%上昇させる目標も設定されている。

政府支援策:アメとガードレールの両輪戦略

政府は民間セクターのAI導入を促進するため、「アメ(インセンティブ)」と「ガードレール(ガバナンス)」の両面からアプローチする。インセンティブとしては、AIの研究開発活動に対する最大8年間の法人所得税免除、中小企業が自動化システムにAIを導入した場合の3年間の法人所得税免除などが盛り込まれている。

ガバナンス面では、国家レベルのAIガバナンス機関の設立、新しいAIアプリケーションを安全に試すための「規制のサンドボックス」設置、AIの性能を評価・認証するテスト施設の構築が提言されている。これは政府が直接的な実行者ではなく、民間セクターがイノベーションを創出しやすい環境を整える「戦略的支援者」としての役割を担う思想的転換を示している。

BKK IT Newsの見解:戦場選択の重要性

今回のホワイトペーパーで最も注目すべき点は、タイが「適切な戦場を選ぶ」という現実的なアプローチを明確にしたことだ。シンガポールのような都市国家とは異なり、タイには広大な製造業基盤と農業地帯が存在する。タイにとって真の機会は、次のGoogleを創ることではなく、工場、農場、病院、ホテルの最適化において世界をリードすることにある。

この戦略の成否は、製造業の生産性向上率、農作物の収穫量、医療診断の精度、観光客の満足度といった、伝統的な経済の柱における具体的な成果によって評価されるべきだ。官民の強固な連携、人材への大規模な投資、信頼に基づくエコシステムの構築が実現の鍵となる。

AIホワイトペーパーの公開は、Thailand 4.0という長い旅路の新たなフェーズの始まりを告げるものであり、その成果がタイの未来を大きく左右することになるだろう。

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