タイ保健省は6月24日、大麻の使用を医療目的に限定する新たな告示に署名した。これにより、2022年6月から続いた「大麻フリー」時代が事実上終了することになる。アジアで初めて大麻を広範に非犯罪化したタイの政策転換は、急成長を遂げた大麻産業と関連企業に大きな影響を与える見通しだ。
政策転換の背景
当初の合法化とその目的
タイは2018年に東南アジアで初めて医療用大麻を合法化した。その後、2022年6月9日には大麻を麻薬リストから完全に除外し、アジア初の広範な非犯罪化を実現した。この政策は、新型コロナウイルス感染症で打撃を受けた経済の立て直しと医療ツーリズムの促進を主要な目的としていた。
プムジャイタイ党は2019年の総選挙で「大麻自由化」を主要な公約として掲げ、大麻を「貧困を解決する植物」や「新しい経済作物」と位置づけた。この政治的推進力と経済的期待が相まって、タイは前例のない大麻政策へと踏み切った。
急速な市場拡大
大麻の非犯罪化後、タイの都市部では大麻関連ショップが急速に拡大した。2023年1月時点で、国内には7,700もの大麻ショップが登録された。これは2024年3月末時点の東京都のコンビニエンスストア数(7,617店舗)に匹敵する規模だった。
経済的な影響も顕著に現れた。バンコク・ポストの調査によれば、タイ国内の大麻市場規模は2025年には約430億バーツ(約1,700億円)に達すると予測されていた。より長期的な予測では、タイの合法大麻市場は2023年から2032年にかけて収益が10.2億米ドルから128億米ドルへと拡大し、年平均成長率32.5%で成長すると期待されていた。
観光業への影響
大麻合法化は、タイをアジア初の「大麻ツーリズム」の目的地として位置づけた。大麻ショップ利用者の大半は外国人観光客で、地元の人の感覚では90%以上が外国人観光客だった。観光立国であるタイにとって、コロナ禍で失われた外国人観光客を呼び戻すための重要な戦略と見なされていた。
深刻化する社会問題
公衆衛生上の懸念
大麻の非犯罪化後、その濫用や悪用による健康被害が顕著に報告され始めた。公衆衛生省管轄の病院における大麻関連の治療患者数は急増した。大麻中毒による外来患者数は、2022年5月の月間52人から2023年2月には月間342人へと6.6倍に増加した。同様に、入院患者数も同期間に月間18人から月間132人へと7.3倍に増加した。
さらに深刻だったのは、大麻使用による精神病患者の急増だった。外来患者は2022年の6,585人から2023年には20,502人へと3倍に、入院患者は742人から3,989人へと5倍に増えた。これらの数値は、非犯罪化が公衆衛生システムに与えた重大な負担を明確に示している。
社会的な混乱
合法化後、タイの街中では公共の場での大麻吸引や、大麻入り食品・飲料の無秩序な販売が問題となった。街中に大麻特有の匂いが漂う状況が生まれ、市民の間で不快感や懸念が急速に高まった。
市民からは、「大麻がすぐ隣にある環境で誰が子育てしたいと思う。経済も大事だけどそれだけではない」といった声が報じられ、経済的利益と社会の健全性のバランスに対する疑問が呈された。特に、若年層への大麻の容易なアクセスは、親や教育関係者の間で深刻な懸念事項となった。
法整備の遅れ
大麻が麻薬リストから除外されたものの、その後の包括的な「大麻法案」の制定が大幅に遅れ、「法律の空白期間」が生じた。この法的真空状態が、無秩序な販売や使用を許容する結果となり、公衆衛生上の問題や社会的な混乱を助長した。
当初、娯楽目的での吸引は禁止されていたにもかかわらず、実質的には「なし崩し」状態であり、規制が不十分であることが多方面から指摘されていた。
政治情勢の変化と世論の転換
政治的背景
大麻の再規制は、タイの政治情勢の変化と密接に関連している。2023年の総選挙後、新政権を率いるタイ貢献党は、大麻の娯楽目的での使用に反対する姿勢を明確にし、医療用途に限定する方針を打ち出した。プムジャイタイ党が連立政権から離脱したことで、大麻法案の政治的推進力が失われ、再規制への動きが加速した。
保健大臣のサムサック・テプスティン氏は、「大麻は確実に麻薬に戻る」と述べ、医療用のみに限定する方針を強調している。
世論の変化
世論調査では、国民の約60.38%が大麻を再び麻薬リストに戻すことに「強く賛成」または「かなり賛成」しており、約74.58%が医療目的での利用に限定することに賛成していることが示された。
タイ国民の大麻政策に関する意識調査結果
質問項目 | 回答割合 |
---|---|
大麻を麻薬と見なすか | 「麻薬だが有用」53.74%、「麻薬で無益」33.59% |
政府の政策目標 | 「医療目的」74.58% |
大麻を麻薬リストに戻すことへの賛否 | 「強く賛成」60.38%、「かなり賛成」15.27% |
合法化への初期賛成割合(2022年2月) | 68.86%(理由:輸入薬削減53.05%) |
この結果は、初期の合法化への賛成割合(68.86%)が主に輸入薬のコスト削減といった経済的理由に基づくものであったこととは対照的だ。
新たな規制の内容
医療用途限定への回帰
タイ保健省は6月24日に「規制ハーブ(大麻)に関する保健省告示2568年」に署名し、大麻の使用を医療目的に限定する方針を明確にした。この告示は、2022年11月11日付の旧告示を廃止し、特に大麻の「花穂」を規制ハーブとして指定している。
主な規制内容
医療用途限定
大麻は医療目的でのみ使用が許可される。購入には医師の処方箋と病状を示す診断書が必要となる。
販売規制
– 販売には許可が必要となり、許可なく販売することは禁止される
– オンラインでの販売も禁止される
– 寺院や宗教施設、寮、公園、動物園、遊園地など、特定の場所での販売は禁止される
– 販売業者には、店舗に医師を常駐させ、販売ライセンスの更新または申請時に医師の立会いが必要となる可能性がある
– 20歳未満の者、妊婦、授乳中の女性への販売は引き続き禁止される
広告規制
大麻の花や樹脂、抽出物、喫煙器具、関連機器の広告は禁止される。虚偽、誇張、または違法行為や非道徳的行為を助長する広告も禁止される。
罰則
– 許可なく大麻を栽培した場合、最高3年の懲役および2万〜30万バーツの罰金
– 娯楽目的での販売や広告には、最高1年の懲役および10万バーツ以下の罰金、またはその両方
– 娯楽目的での使用には、最高6万バーツの罰金
企業への影響と今後の展望
産業への深刻な影響
今回の再規制は、急成長を遂げたタイの大麻産業に大きな影響を与えることが予想される。2025年には約1,700億円規模に達すると予測されていた市場は、大幅な縮小に直面する可能性がある。特に、数万店舗に及ぶとみられる大麻ショップの多くが閉鎖を余儀なくされ、関連する失業問題が発生するだろう。
TDRI(タイ開発調査研究所)の調査では、登録された大麻ビジネスの多くが赤字であり、利益を出しているのはわずか25%に過ぎないと報告されており、今回の規制強化はこれらの事業者にとって致命的となる可能性がある。
観光業への影響
大麻の非犯罪化は、タイをアジア初の「大麻ツーリズム」の目的地として位置づけ、外国人観光客の誘致に貢献した。しかし、今回の再規制により、娯楽目的での大麻利用を期待して訪れる観光客は減少する可能性が高い。これにより、大麻関連の観光収入が失われ、特に観光地で大麻ビジネスを展開していた事業者にとっては大きな打撃となるだろう。
医療用大麻市場の課題
一方で、医療用大麻市場は、規制が厳しくなることで供給不足に陥る可能性が指摘されている。医療用大麻の生産は限られた政府系機関や認可を受けた研究・医療機関にのみ認められており、民間企業による栽培や抽出への直接投資は2024年まで禁止されていた。この制限が維持される場合、医療用大麻の需要増加に対応できない可能性がある。
企業が取るべき対応
既存事業者の対応策
大麻関連事業を展開してきた企業は、新たな規制に適応するための戦略転換が急務となる。医療用途に特化したビジネスモデルへの転換、必要な許可の取得、医師との連携体制の構築などが求められる。
新たなビジネス機会
規制強化により市場は縮小するものの、適切な許可を取得し、医療用途に特化した企業にとっては、競合が減ることで新たなビジネス機会が生まれる可能性もある。特に、医療機関との連携や、品質管理に優れた製品の提供が重要となるだろう。
まとめ
タイの大麻政策転換は、わずか3年足らずで広範な非犯罪化から厳格な医療用途限定へと舵を切る大きな変化だ。この政策転換は、公衆衛生上の懸念と国民の強い要望に応えるための必然的な措置と言える。
企業にとっては、急速に成長した市場の大幅な縮小という厳しい現実に直面することになる。しかし、適切な対応を取ることで、新たな規制環境下でのビジネス機会を見出すことも可能だ。今後のタイ政府の具体的な運用方針と、包括的な大麻法案の制定が注目される。