タイ最低賃金400バーツ問題:政治的混乱が日系企業に与える真のリスク

タイ最低賃金400バーツ問題 ~政治的混乱が日系企業に与える真のリスク~ タイ政治・経済
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2025年6月17日、タイの中央賃金委員会が日額400バーツへの最低賃金引き上げを決議した。しかし、その直後に担当大臣が辞任し、7月1日からの実施が不透明になっている。この一連の混乱は、単なる賃金問題を超えて、タイの政策決定プロセスの脆弱性を浮き彫りにした。日系企業の経営者にとって、今回の事態が示すリスクと対応策を整理する。

政治的公約が招いた拙速な決定

今回の賃上げは、2023年総選挙でタイ貢献党が掲げた「2027年までに600バーツ」という公約の第一歩だった。ペートンターン政権は当初、2024年10月や2025年1月での全国一律実施を目指したが、経営者団体の強い反発で何度も延期された。

最終的に6月17日の決議では、バンコク全域と全国の特定業種(2つ星以上のホテルなど)に限定して400バーツを適用することになった。しかし、この決議は経営者側代表5名が反対する中、政府側と労働者側の賛成多数(10対5)による強行採決だった。

政策実現を阻む政治的空白

決議直後、連立与党のタイ誇り党が連立離脱を表明し、ピパット労働大臣を含む全閣僚が辞任した。タイの法的手続きでは、賃金委員会の決議は労働大臣が閣議に提出し、承認を得て官報掲載されて初めて効力を持つ。大臣の辞任により、この手続きが宙に浮いた形となった。

その後、ペートンターン首相はスラヤ副首相に労働省の監督を暫定的に割り当てたが、経営者団体の強い反発が続く中、政策実現の見通しは依然として不透明だ。

経営者団体の論理的な反発

タイ工業連盟(FTI)とタイ商工会議所(TCC)は、今回の決定に強く反発している。彼らの主張には合理的な根拠がある。

2025年6月時点のインフレ率はわずか0.22%と低水準にある。経済成長も脆弱な中で、最大20%以上の大幅な賃上げを行う経済的合理性は見当たらない。また、労働者保護法第87条では、最低賃金は各県の経済状況やインフレ率を考慮して決定すべきと定められているが、地方の賃金小委員会の90%以上が全国一律400バーツに反対していた。

さらに、人件費の急騰はベトナムやインドネシアなど近隣競合国に対するタイの投資魅力を損なう恐れがある。特に経営体力の弱い中小企業にとって、急激なコスト増は経営を圧迫する深刻な問題だ。

企業への直接的影響

カシコンリサーチセンターの試算によれば、全国一律400バーツへの引き上げは企業の平均人件費を約6%増加させる。特に農業、建設業、宿泊・飲食サービス業といった労働集約型産業では、人件費が8%から14%も増加する可能性がある。

今回の政策でバンコクと共に対象となったホテル業界では「なぜ我々だけが狙い撃ちされるのか」という不公平感が生まれている。タイホテル協会は決議の撤回を求める書簡を首相に提出するなど、強い反発を示している。

日系企業が直面する構造的リスク

今回の事態で最も深刻なのは、政策の予測不可能性だ。経済データよりも政治的判断が優先されることで、将来の規制環境が極めて予測困難になっている。

特に自動車や電子部品のような高度なサプライチェーンに依存する日系企業にとって、自社が最低賃金以上の給与を支払っていても安心はできない。重要な部品を供給するローカルの中小サプライヤーが今回の賃上げで経営危機に陥れば、生産ライン全体が停止するリスクがある。

政府の支援策と活用法

タイ政府は賃上げによる企業負担を緩和するため、いくつかの支援策を提示している。従業員200人以上の企業を対象とした社会保険料の使用者負担軽減(12ヶ月間1%軽減)や、SMEs向け総額300億バーツ規模の低利融資プログラムなどだ。

また、従業員200人未満の企業に対し、旧賃金率の適用を12ヶ月間猶予する案も検討されているが、これは大臣による提案段階で確定していない。

日系企業が取るべき対応策

まず短期的には、賃金構造の全面的な見直しが必要だ。最低賃金労働者だけでなく、他の階層との給与バランスを保つため、全階層の給与テーブルを再設計する必要がある。

中期的には、生産性向上への投資を加速すべきだ。賃金上昇分を吸収するため、自動化技術の導入や従業員のスキル向上プログラムに積極的に投資することが求められる。

長期的には、「タイ+1」戦略の具体化を検討すべき時期に来ている。特にコスト競争力が重要な労働集約的な製品については、生産拠点の一部をベトナムやインドネシアなど、よりコスト競争力のある近隣諸国へ移管することを真剣に検討する必要がある。

まとめ

今回の最低賃金引き上げ問題は、タイの政策決定プロセスの構造的な脆弱性を露呈した。経済的合理性よりも政治的公約が優先され、その実現過程で政治的混乱が生じる。このような予測不可能な環境では、日系企業は従来以上に慎重なリスク管理と戦略的な事業構造の見直しが不可欠だ。

単なるコスト増への対応ではなく、タイにおける事業環境の根本的な変化として捉え、生産性向上と事業構造改革を通じて、より強靭な経営基盤を構築することが求められている。