タイ観光業が深刻な転換点を迎えている。2025年1月から5月までの中国人観光客数は前年同期比32.7%減となり、COVID-19パンデミック期間を除けば過去12年間で最低水準に落ち込む可能性が指摘されている。かつてタイ観光市場の最大勢力として君臨した中国人観光客の急減は、単なる一時的な現象ではなく、観光業界全体の構造変化を示唆している。
数字が示す深刻な現実
2025年前半の中国人観光客数の減少は、予想を大幅に上回る規模となった。以下の表が示すように、その影響は日を追うごとに深刻化している。
項目 | 数値 | 備考 |
---|---|---|
2024年1月~5月の中国人観光客数 | 2,911,370人 | 前年実績 |
2025年1月~5月の中国人観光客数 | 1,958,939人 | 32.7%減 |
2025年4月16日の日別入国者数 | 5,833人 | 過去最低(通常15,000~20,000人/日) |
2025年5月末時点の日別平均入国者数 | 約10,000人 | 通常の半分以下 |
全外国人観光客に占める中国人の割合(2019年) | 28% | パンデミック前 |
全外国人観光客に占める中国人の割合(2025年5月末) | 14% | 半減 |
この減少幅は、タイ経済全体にも波及している。観光業がGDPに占める割合の高さから、中国人観光客の回復遅延はタイの経済成長率予測の下方修正要因となっている。
減少の背景にある複合的要因
長期的構造変化
中国人観光客の減少には、複数の長期的要因が作用している。最も重要なのは、中国政府が国内観光を経済エンジンとして積極的に奨励していることだ。中国人の国内旅行はCOVID-19以前の93.6%まで回復している一方、海外旅行は86.5%に留まっている。
さらに、中国人観光客の行動様式も根本的に変化している。COVID-19以前は約40%が団体旅行だったが、現在その割合は20%まで減少した。一方で個人旅行(FIT)は77.4%まで回復し、約530万人に達している。この変化は、タイの観光産業が従来の団体旅行依存型ビジネスモデルから脱却する必要があることを示している。
短期的阻害要因
2025年に入って顕在化した短期的要因も深刻だ。特に影響が大きいのは、1月に発生した中国人俳優「シンシン」の失踪事件だ。後に誘拐ではないと判明したものの、この事件は中国国内で大きく報道され、タイの安全イメージに深刻な打撃を与えた。
事件後、中国人観光客の50%がタイを「安全ではない」と認識しており、2024年の38%から大幅に増加している。一度失われた信頼は、事実関係の訂正だけでは容易に回復しない現実を浮き彫りにしている。
競合国との競争激化も見逃せない要因だ。日本やマレーシアは中国人観光客にとって人気が高まっており、特に日本は2024年に中国人観光客数でタイを上回った。44カ国がビザ免除、36カ国が到着ビザを提供する中、タイは単なる利便性だけでは競争優位を保てない状況に直面している。
政府の積極的対応策
「สวัสดี หนีห่าว」キャンペーン
タイ政府観光庁(TAT)は、失われた信頼回復に向けて大規模なキャンペーンを展開している。5月28日から6月1日にかけて実施された「สวัสดี หนีห่าว(Sawassdee Nihao)」キャンペーンは、タイ・中国国交樹立50周年を記念し、タイを安全で質の高い旅行先として再ブランディングすることを目的としている。
このキャンペーンでは、中国の旅行会社約400社、メディア関係者およびKOL(キーオピニオンリーダー)約200人をタイに招き、現地の観光地や商品を見学させた。TATは3億5,000万人以上の認知度向上と、5,000件以上の商談成立を見込んでいる。
チャーター便活性化と支援策
TATはチャーター便市場の活性化にも注力している。2025年のチャーター便成長率は52%増と予測され、特に北京からは26%増、上海からは117%増、成都からは164%増の大幅な伸びが見込まれている。
政府は7億5,000万バーツ規模の「タイランド・サマー・ブラスト – チャイナ&オーバーシー・マーケット・スティミュラス・プラン」を提案し、335億1,800万バーツの経済効果と79万人以上の外国人観光客誘致を目指している。
ビザ免除政策の継続
2024年3月1日より発効したタイ・中国間の恒久的相互ビザ免除政策も重要な施策だ。両国民は30日以内の滞在であればビザなしで渡航可能となり、180日間のうち合計90日まで滞在できる。しかし、この政策が導入されたにもかかわらず中国人観光客数が減少している事実は、ビザ以外の要因がより強く作用していることを示唆している。
予測の大きな乖離と不確実性
2025年通年の中国人観光客数予測には大きな乖離がある。カシコンリサーチセンターは750万人と予測する一方、TATは現状のトレンドが続けば400万~500万人にとどまる可能性を指摘している。この大きな差は、市場の不確実性と政府・業界が直面する危機感の深さを物語っている。
ONYXホスピタリティ(タイランド)は2026年に中国人観光客数が500万人に達する可能性があると予測しているが、これも楽観的なシナリオに基づくものだ。
観光業界の構造変化への対応
FITと高価値観光へのシフト
中国人観光客の行動様式変化に対応するため、タイ観光業界は戦略の根本的見直しを迫られている。個人旅行や小規模団体旅行を選ぶ傾向が強まり、旅行計画の意思決定期間も約1ヶ月と短くなっている。
歴史・文化体験への関心も高まっており、「コンテンツツーリズム」「セットジェッティングツーリズム」「イベントツーリズム」「ガストロノミーツーリズム」への需要が拡大している。健康やウェルネス、スパ製品、ハーブ医療への関心も増している。
長期的な市場展望
2030年までに中国からの海外旅行者数は3億3,400万人に達する可能性がある。これは2019年の1億6,000万人から倍増する規模だ。中間層の増加、Z世代の台頭、パスポート取得の容易化などが要因となっている。
タイの国家観光開発計画(第3版 2023-2027)は「レジリエンス、持続可能性、包摂的成長を伴う高価値観光産業の再構築」をビジョンとして掲げている。この計画には、レジリエンスの強化、質の高いインフラ開発、観光体験の向上、持続可能な開発の促進が含まれている。
政策の潜在的リスクと課題
ビザ免除政策の副作用
ビザ免除政策は経済効果をもたらす一方で、潜在的リスクも抱えている。「質の低い観光客」や「グレーな中国人」の流入、ゼロドルツアーの復活といった懸念がある。
特に問題となるのは、中国人資本の企業のみを利用し、収益がタイの事業者や地域社会に還元されないタイプの「ゼロドルツアー」だ。これは従来の強制的な購入を伴うものより巧妙で規制が困難な課題となっている。
安全イメージ回復の困難さ
政府の保証やキャンペーンにもかかわらず、中国人観光客の安全に対する認識は悪化している。実際の安全対策と国民の認識との間にギャップが存在することを示している。信頼回復には、一貫した透明性のあるコミュニケーションと、公安の目に見える改善が不可欠だ。
日系企業への示唆
タイ観光業の構造変化は、日系企業にとっても重要な示唆を含んでいる。まず、特定市場への過度な依存リスクの再認識だ。中国人観光客への依存度が高かった企業ほど、今回の減少の影響を大きく受けている。
一方で、FIT層や高価値観光へのシフトは新たなビジネス機会も生み出している。デジタルプラットフォームやソーシャルメディアを活用したマーケティング、個別化された体験の提供、ニッチな観光セグメントへの参入などが考えられる。
また、ビザ免除政策に伴うリスク管理も重要だ。コンプライアンス体制の強化、適切なパートナー選択、透明性の高い事業運営が求められる。
今後の展望
タイ観光業は明らかに転換点を迎えている。中国人観光客の減少は短期的には痛手だが、長期的には観光業の多様化と質的向上を促す契機となる可能性がある。
成功の鍵は、「量」から「質」への戦略転換を如何に迅速かつ効果的に実行できるかにある。政府の積極的な支援策と民間企業の柔軟な対応が組み合わさることで、より持続可能で強靭な観光業の構築が期待される。
中国市場の重要性は今後も変わらないが、過度な依存からの脱却と市場の多様化が、タイ観光業の長期的な競争力維持には不可欠だ。この構造変化を乗り越えた先に、より成熟した観光立国としてのタイの姿が見えてくるだろう。