2025年5月16日、格付け会社ムーディーズが米国債の信用格付けを最上位の「Aaa」から「Aa1」に引き下げた。この決定は106年ぶりの出来事であり、世界経済に広範な影響を与えている。タイ経済にとっても、この格下げは既存の課題を増幅させる新たな要因となっている。
米国債格下げの背景
ムーディーズが格下げの主な理由として挙げたのは、10年以上にわたる政府債務と利払い費の増加だ。2024年には連邦債務が36兆ドルに達し、対GDP比で98%となった。2035年には134%に達すると予測されている。利払い費は2021年の連邦歳入の9%から2024年には18%を占めるようになり、2035年には30%に達する見込みだ。
2025年1月には債務上限問題が再燃し、財務省は債務不履行を回避するための「特別措置」を実施した。スコット・ベッセント財務長官は、議会が休会に入る8月までに財務省の資金が枯渇する可能性があると警告している。
主要3社の格付け会社すべてが米国債の最高位格付けを剥奪することになった。S&Pは2011年に、フィッチは2023年に既に米国債を格下げしており、今回のムーディーズの決定で完全に収斂した形となる。
タイ経済への複合的な打撃
信用格付けの見通し悪化
ムーディーズは米国債格下げに先立つ4月29日に、タイの信用格付けを「Baa1」に据え置いたものの、見通しを「安定的」から「ネガティブ」に変更した。主な理由は、米国の関税措置が世界の貿易と経済成長に大きな影響を与え、タイの開放的な経済を弱体化させるリスクが高まったことだ。
タイ経済はパンデミック後の回復が鈍く、潜在成長率の低下傾向が懸念されている。2025年のGDP成長率予測は、ムーディーズが2.9%から約2%に引き下げ、SCB EICは1.5%に、世界銀行は1.6%に下方修正している。
タイの公的債務は対GDP比で64.21%に達し、70%の債務上限に近づいている。過去の危機時と比較して財政余地が「非常に少ない」状況だ。一方で、タイは2025年3月時点で2150億ドルの潤沢な外貨準備を保有しており、約7か月分の輸入をカバーする十分な水準を維持している。
金融市場の逆説的な反応
米国債格下げ後、予想外の現象が起きた。「米国資産売り」の傾向が、タイの債券市場への外国資本流入を促進したのだ。2025年初頭から5月22日までに、外国人投資家はタイの債券に700億バーツを超える純購入を行った。特に中期・長期債に17億ドルが流入している。
これらの資金は「ホットマネー」ではなく、リスク管理を重視した長期投資が主体だった。世界的な不確実性が高まる中で、タイが新興国市場における比較的安全な避難先と見なされたことを示している。タイの債券市場は安定しており、長期国債の入札は応募倍率が2倍を超えるなど好調だった。
この外国資本流入は、タイバーツの予想外の強さにつながり、対ドルで32バーツ台に達した。SCB EICは、短期的にバーツがさらに強含み、2025年末までに31.5~32.5バーツの範囲で推移すると予測している。
輸出競争力への懸念
しかし、このバーツ高はタイの輸出競争力に悪影響を及ぼす可能性がある。タイ商業大臣は輸出を支援するためにバーツが36~37バーツ/ドルの水準が望ましいと述べている。これは、金融市場の安定と実体経済の競争力の間で、タイが直面する政策上のジレンマを浮き彫りにしている。
タイは輸出依存型経済であり、対米輸出への依存度が高い。2020年には、タイの対米総輸出に占める国内付加価値の割合はGDPの約3%だった。米国の「アメリカ・ファースト」政策は、米国企業の投資本国還流を促す傾向があり、タイへの対米直接投資の減少につながると予測されている。2025年第1四半期には、タイへの対米FDIは上位10カ国に入らなかった。
中央銀行の対応と限界
タイ中央銀行は、世界的な貿易戦争と不確実性の増大を認識している。その影響が2025年後半から2026年にかけて顕在化し、主に輸出志向型産業や中小企業に影響を及ぼすと予測している。
このような経済見通しと下方リスクの増大に対応するため、金融政策委員会は政策金利を2.5%から1.75%に引き下げた。SCB EICは、年内にさらに2回の利下げが行われ、政策金利が1.25%に達すると予測している。
しかし、中央銀行は残された金融政策の余地が「広範ではない」と明言している。これ以上の利下げは刺激効果が逓減する可能性が高く、将来のより深刻なショックに備えて政策余地を温存する必要があると考えている。
貸出成長率は依然としてほぼゼロ(-0.5%)にとどまり、特に中小企業や一部の個人向け貸出の質は改善していない。中央銀行は、この問題が金利水準だけでなく、借り手の信用リスクに起因すると分析している。
構造改革への転換点
タイ政府は、貿易不均衡を是正するため、米国からの輸入増加やタイ企業の対米投資促進といった貿易譲歩案を米国に提示している。また、米国関税の影響に対抗するため、1570億バーツ(約47億ドル)の予算を「デジタルウォレット」刺激策から再配分する措置も講じている。
しかし、専門家は短期的な刺激策よりも長期的な構造改革の重要性を指摘している。タイは経済の強靭性を高め、信用格付けのさらなる引き下げを回避するために、実質GDP成長率を3~4%に引き上げることを目指す必要がある。
具体的には、インフラ整備の加速、持続可能な所得を生み出す高付加価値産業の育成、研究開発能力の強化、時代遅れの法規制の見直し、そして人的資本開発への優先的な投資が求められる。加工食品、自動車部品、家電製品といった輸出志向型産業や、衣料品、繊維、家具などの輸入競合型産業に属する中小企業への的を絞った支援も不可欠だ。
今後の展望
米国債格下げは、タイ経済が直面する課題の複雑さを改めて浮き彫りにした。外国資本流入による金融市場の安定は一時的な恩恵をもたらしているが、バーツ高による輸出競争力の低下という新たな課題も生み出している。
タイ政府と中央銀行は、財政・金融政策の協調を通じて、外部ショックに対する経済の耐性を高める必要がある。短期的な景気刺激策に過度に依存せず、長期的な成長を支える構造改革に注力することが、持続的な経済発展への道筋となるだろう。
世界経済の不確実性が高まる中、タイ経済の真の試練はこれから始まる。