2025年11月、タイで「デスティネーション・タイランド・ビザ(DTV)」を保持するデジタルノマド層が、国内主要銀行で口座開設を拒絶される事態が深刻化している。タイ政府は2025年を観光推進の年と位置づけ、DTVを通じて高所得層の長期滞在を促進してきたが、金融犯罪対策を強化するタイ中央銀行(BOT)の方針と真っ向から衝突する結果となっている。
主要銀行が一斉に口座開設を制限
タイ最大の商業銀行であるバンコク銀行は、2025年1月以降、観光ビザを持つ外国人に対する新規口座開設を停止した。同行の広報担当者は「DTVビザは180日の滞在が可能であっても、分類上は観光ビザの一種であるため、新規制の対象となる」と回答している。
国営系のクルンタイ銀行においても、DTVビザ保持者に対する新規口座開設の拒否に加え、既存の顧客に対してもビザステータスの変更を理由に、モバイルバンキングアプリの利用をロックする事例が確認された。顧客への回答メールには「2025年4月3日より発効した新条件により、DTVビザ保持者の新規口座開設および銀行サービスの利用は認められない」と明記されている。
カシコン銀行、サイアム商業銀行といった主要4行において、DTVビザのみを根拠とした口座開設は、支店長レベルの裁量が及ばない限り原則として不可能となっている。
「観光ビザ」としての法的分類が問題の核心
DTVビザは「就労(Workcation)」を目的の一つとしているにもかかわらず、タイ労働省発行の労働許可証(Work Permit)が付与されない。この点が金融機関にとっての決定的な判断基準となっている。
タイの銀行業界において「居住者(Resident)」として扱われるためには、労働許可証または長期居住を証明する公的書類が不可欠だ。これを持たないDTV保持者は、マネーロンダリング対策(AML)の観点から「非居住者(Non-Resident)」または「高リスクな短期滞在者」と分類されている。
エリートビザやLTRビザは政府機関がステータスを保証する仕組みがあるが、DTVにはそのような身元保証メカニズムが希薄だ。銀行にとって、50万バーツの残高証明だけで取得できるDTVは、信用力の証明として不十分とみなされている。
BOTの規制強化が直接的な原因
2025年8月8日、タイ中央銀行は「テクノロジー犯罪対策のための新たな標準および措置」を施行した。これがDTV保持者が直面している問題の直接的な原因となっている。
新基準では、顧客リスク評価を厳格化し、リスクの高い口座を3段階に分類して管理を義務付けた。銀行側は、これらのリスク口座が開設されることを未然に防ぐため、本人確認(KYC)および強化されたデューデリジェンス(EDD)を徹底する必要に迫られた。
DTV保持者は「定職(タイ国内での)」を持たず、「収入源が海外」にあり、「居住地が流動的」であるため、銀行のリスク評価モデル上、「犯罪組織による資金洗浄に悪用されるリスクが高い属性」または「追跡困難な属性」として判定されやすい。
BOTおよびマネーロンダリング取締局(AMLO)は、労働許可証を持たない外国人の口座開設を事実上「高リスク取引」とみなし、銀行に対し極めて慎重な対応を求めた。
政策の不整合が生んだ構造的問題
この問題の根底には、タイ政府内における政策の不整合が存在する。タイ国政府観光庁(TAT)は、ビザ要件を緩和し、DTVを導入して世界中からデジタルノマドを呼び込み、2025年に3.4兆バーツの観光収入を目指している。
一方、タイ中央銀行は金融犯罪の防止と国際的信用維持のため、不透明な資金フローを遮断し、非居住者の金融アクセスを厳格化している。DTVビザは、この二つの巨大な行政方針の「断層」に位置しており、結果として保持者がその割を食う形となっている。
エージェント利用の危険性
正規ルートでの口座開設が閉ざされた結果、DTV保持者は「エージェント」と呼ばれる仲介業者に依存せざるを得ない状況に追い込まれている。SNSやウェブサイト上では、「100%保証」「銀行内部とのコネクションあり」を謳うエージェントが多数活動している。
エージェント経由での口座開設は、一時的な解決策にはなり得るが、極めて高いリスクを伴う。銀行本店やBOTの監査により、不適切なプロセスで開設された口座が事後的に発覚した場合、口座は即座に凍結または強制解約される。
また、エージェントにパスポートや個人情報を預けた結果、それらが別の犯罪に悪用される事例や、手数料を支払った後に連絡が途絶える詐欺被害も報告されている。偽造書類の使用が発覚した場合、口座名義人であるDTV保持者自身が文書偽造罪や詐欺罪に問われ、ビザの取り消しや国外退去処分となる可能性がある。
経済的機会損失と競争力低下
タイ国政府観光庁はDTVを通じて高所得層の長期滞在を促進し、消費拡大を狙っている。デジタルノマドの推定月間支出額は3万〜8万バーツ以上とされ、これは一般のバックパッカーを大きく上回る。
しかし、銀行口座を持てないことは、コンドミニアムの賃貸契約、インターネット回線の契約、高額な医療サービスの利用、そして日常的なQR決済の利用を著しく阻害する。生活の利便性が損なわれれば、デジタルノマドはタイを避け、マレーシアやベトナム、インドネシアといった近隣諸国へ流出する可能性が高い。
解決には制度修正が不可欠
短期的には、BOTの方針が緩和される見込みは薄い。銀行側はコンプライアンス違反による罰則を最も恐れており、TATからの要請があったとしても、法的免責がない限りリスクを取る動機がないからだ。
今後、DTV制度の持続可能性を確保するためには、政府が特定の銀行を指定し、より厳格な審査を条件に、DTV保持者専用の口座を提供させるスキームの構築が必要になる。あるいは、TrueMoneyなどのノンバンク系決済事業者が、高度なe-KYC技術を用いて外国人受け入れの主要な受け皿となる展開も考えられる。
現状において、DTVビザでのタイ移住を検討する方は、銀行口座が開設できない可能性を前提とした資金計画を立てる必要がある。タイ社会側もまた、この「招かれざる客」と化した長期滞在者との共存方法を模索する過渡期にあると言える。


