バンコクのタクシーサービスが転換点を迎えている。タイ交通省が2025年10月に発表したデジタルタクシーメーター導入政策は、長年の課題であった乗車拒否問題に対する包括的な解決策だ。QRコードによる即時通報システム、GPS連動の透明な運賃計算、そしてラッシュアワーの追加料金という3つの柱で、運転手と乗客の双方が抱える問題に対処する。
乗車拒否を即座に通報できる仕組み
新システムの中核は、QRコードを活用した即時通報システムだ。各タクシー車両には固有のQRコードが車外のドア付近に設置される。乗客はスマートフォンでこのコードをスキャンするだけで、運転手の身元情報と車両登録情報を確認できる。
この「車外設置」という設計が重要だ。乗車を拒否された瞬間、乗客は車内に乗り込むことなく、その場でQRコードをスキャンして陸運局に直接通報できる。従来のように車両ナンバーを暗記して後で通報する必要はない。
通報が確認されたドライバーには最大2,000バーツの罰金が科される。違反を繰り返す場合は運転免許の停止処分も下される。特に観光客を対象とした悪質な事例については、即時の免許停止も辞さない方針だ。
GPS連動で透明性を確保
デジタルメーターは全地球測位システムと連動し、運賃をリアルタイムで計算する。移動距離だけでなく、移動時間、交通状況、燃料価格といった複数の要素を組み込む仕組みだ。韓国や日本で既に採用されている技術と同様のシステムである。
GPSによる移動ルートの追跡により、メーターの不正改造や意図的な遠回りといった不正行為を根本的に排除できる。全行程が当局によって監視されるため、ドライバーによる不正の余地は大幅に減少する。
ラッシュアワーに10~20バーツの追加料金
基本料金35バーツは据え置かれるものの、特定の条件下で追加料金が導入される。対象となるのは朝夕のラッシュアワーと午後9時以降の夜間だ。これらの時間帯での乗車に対し、10バーツから20バーツの追加料金が徴収される。
この追加料金は単なる値上げではない。乗車拒否問題の根本原因に対処するための設計だ。タイ開発研究所の分析によれば、1992年から現在までの約30年間で生活費は118%高騰したが、タクシー運賃はわずか55%しか上昇していない。運転手の平均収入は最低賃金レベルと同等にまで落ち込んでいる。
特に渋滞がひどいラッシュアワーは、距離ベースのメーターがほとんど上がらず、燃料と時間を一方的に浪費するため、運転手にとって「割に合わない」。追加料金は、まさにその時間帯に経済的補填を与えることで、乗車拒否という行動を合理的に抑制する仕組みだ。
ドライバーの自己負担という最大の課題
導入スケジュールは段階的だ。追加料金の適用は早ければ2025年12月から始まる見込みだ。2025年から2026年にかけて退役が見込まれる約15,000台の代替として導入される新車には、デジタルメーターの設置が義務付けられる。既存のタクシーのうち、車齢が4年未満の車両は任意で交換が認められる。
最大の課題は、メーター設置費用が全額ドライバーの自己負担とされる点だ。これは2017年から2018年に実施され失敗した「Taxi OK」プロジェクトと同じ構造的欠陥を抱えている。
Taxi OKプロジェクトでは、ドライバーに約20,000バーツの初期費用と月額350バーツのサービス料が課された。経済的に困窮しているドライバーに一方的に高額な負担を強いた結果、市場に浸透せず廃止された。
今回の政策は「追加料金」という明確な経済的インセンティブを提供する点でTaxi OKから進歩している。ドライバーが初期コストを負担してでも参加したいと思えるだけの収入増が見込めるかどうかが、成否を分ける。
Grabとの「タクシー戦争」終結
この政策が2025年10月に発表されたタイミングには理由がある。ほぼ同時期に「デジタルプラットフォームサービス法」が施行され、Grabに代表されるライドヘイリング・プラットフォームが初めてタイの法規制下に組み込まれた。Grabのドライバーも、伝統的タクシーと同様に公共運転免許の取得と車両の商用登録が義務付けられた。
長年続いた伝統的タクシー業界とGrabの対立は、2025年5月に頂点に達した。伝統的タクシー組合はスワンナプーム国際空港でのGrabの営業に反発し、空港の出入り口を車両で封鎖すると脅迫する実力行使に出た。
これら2つの政策は、対立する両陣営を同時に法規制のテーブルに着かせる「グランドバーゲン」だ。伝統的タクシーには追加料金徴収権を与え、Grabには完全な合法化を与える。双方に義務を課すと同時に権利を与える構造だ。
規制当局が最大の勝者に
最大の勝者は陸運局かもしれない。デジタルタクシーメーターから得られる全車両のGPS運行データと、デジタルプラットフォームサービス法によってGrabから報告が義務付けられる運行データの両方を手に入れる。バンコク市内のほぼ全ての公共交通のリアルタイム・ビッグデータを一元的に掌握することになる。
長年の「タクシー戦争」は終結し、両者は規制下での競争という新しい段階に入った。伝統的タクシーはGrabの長所を取り入れ、Grabは伝統的タクシーの義務を負う。長期的には両者のサービスは収斂していくだろう。
市場の二極化リスク
乗客にとっては安全性と透明性が大幅に向上する。QRコードによる身元確認とGPS追跡で、「ぼったくり」や意図的な遠回りのリスクが減少する。一方で、ラッシュアワーと深夜には1回あたり10~20バーツの追加料金を支払うことになる。
運転手への影響は複雑だ。新システムに参加したドライバーは追加報酬を得られ、職業的地位も向上する。しかし、初期コストを負担できない個人ドライバーは新システムから排除される可能性がある。
バンコクのタクシー市場は二極化すると予想される。追加料金を徴収でき乗客からの信頼も厚い新システム搭載車と、追加料金を徴収できず敬遠される旧メーター車に分かれる。この二極化は、豊富な資金力で多数の車両をアップグレードできる大規模タクシー協同組合への集約を促す可能性がある。
政策の成功は2点にかかっている。第一に、ドライバーが初期コストを負担してでも参加したいと思えるだけの追加料金収入が見込めること。第二に、陸運局がQRコードを通じた苦情に対して迅速かつ厳格に罰則を執行し続けること。この報酬と法執行の両輪が力強く回り続けた時のみ、バンコクのタクシーサービスは真の構造的アップグレードを達成できる。
参考記事リンク
- Passengers can report taxi drivers immediately after rejection under new monitoring system – The Nation Thailand
- Transport Minister confirms Digital Taxi Meter aims to improve Thai taxis, reiterates no fare increase – Money & Banking Magazine
- Ministry plans digital meter – Bangkok Post
- Meters won’t end taxi woes – Bangkok Post
- The curious case of cabbies refusing fares – TDRI


