タイが選んだ現実的な経済政策 ~Quick Big Winで短期回復と長期成長を両立~

タイが選んだ現実的な経済政策 ~Quick Big Winで短期回復と長期成長を両立~ タイ政治・経済
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タイのアヌティン政権が2025年9月に打ち出した「Quick Big Win」経済戦略は、発表から2か月が経過し、具体的な成果が見え始めている。核となる「コンラクルンプラス(Khon La Khrueng Plus)」は10月29日の開始から約2週間で170億バーツの支出を記録した。前政権の「1万バーツ・デジタルウォレット」構想が財政規律の懸念から頓挫する中、新政権が選択したのは過去に実績のある政策を核とした現実的なパッケージだった。この戦略は単なる景気刺激策ではない。短期的な経済下支えと長期的な構造改革を同時に進める、タイ経済の転換点となる重要な取り組みだ。

前政権の挫折と新戦略の登場

2025年8月、セター前首相が憲法裁判所の判断により解任された。この政治的混乱は投資家の判断を一時停止させ、経済活動に急ブレーキをかけた。前政権の看板政策だった「デジタルウォレット」は5,000億バーツもの巨額予算が必要で、財源の不透明さから国家汚職防止委員会(NACC)の調査対象となっていた。

9月に発足したアヌティン新政権が直面したのは、政策が失敗し経済が停滞する最悪の状況だった。エカナティ財務大臣は当時の経済状況を「何もしなければ崖から落ちる」と表現している。この危機感が「Quick Big Win」という即効性と実行力を伴う政策を生み出す原動力となった。

「財政規律」を基盤とした5つの柱

「Quick Big Win」戦略の最大の特徴は「財政規律」を「1つの基盤」として明確に位置づけた点だ。エカナティ財務大臣は「追加の借り入れは行わない」「資金は通常の年間予算から捻出する」と明言し、前政権との違いを鮮明にした。

この堅固な基盤の上に、5つの政策柱が構築されている。

第1の柱は「経済と観光の刺激」で、440億バーツを投じる「コンラクルンプラス」が中核を担う。利用者が支払う金額と同額を政府が補助する共同支払い方式を採用し、2,000万人の国民を対象に10月29日から12月末まで実施される。

第2の柱は「債務問題の解決」だ。タイの家計債務はGDP比87%という世界でも突出した水準にある。政府は「Clear Debt, Move Forward」プログラムを開始し、債務再編へのアクセスを拡大する。

第3の柱は「SME支援」で、信用保証公社を通じた500億バーツの信用保証枠を提供する。

第4の柱「国民貯蓄の促進」では、高齢化社会を見据えて貯蓄くじを導入する。

第5の柱「未来産業の構築」では、既にBOIが承認済みの外国直接投資案件の許認可プロセスを「Fast Plus Pass」で短縮し、投資を即座に実行に移す。

過去の成功モデルを改良し好調な滑り出し

「コンラクルンプラス」は前政権の「デジタルウォレット」とは全く異なる。これはプラユット政権で実施され国民から高い評価を得た「コンラクルン(Khon La Khrueng)」の改良版だ。

10月29日の開始から約2週間で170億バーツの支出を記録し、好調な滑り出しを見せている。この実績は政策設計の巧みさを裏付けるものだ。(関連記事:タイ「コンラクルンプラス」が好調

共同支払い方式は利用者自身の支出を促し、政策予算440億バーツで最低でも880億バーツの経済効果を保証する。さらに巧みな設計が施されている。補助枠に2,000バーツと2,400バーツの差を設け、納税申告を行っている国民には2,400バーツを付与する。この400バーツの差額は、国民が自発的に税務システムに登録する強力なインセンティブとして機能する。

対象店舗を小規模な個人商店、飲食店、屋台に限定することで、補助金が大手資本に集中するのを防ぐ。経済の毛細血管である小規模事業者に確実に恩恵が届く仕組みだ。

商務省の7つの実行策

財務省の「5つの柱」がマクロ経済の枠組みであるのに対し、スパジー商務大臣は実体経済に直結する「7つの政策」を発表した。

生活費の低減では、「トンファー(青旗)」と呼ばれる政府公認の廉価販売プロジェクトを年間1,300回開催する。SMEとローカル製品の強化では、「Thai SELECT」や「Thailand Trust Mark」を活用してブランド力を支援する。

規制緩和では、ビジネスの障害となっている古い法律を改正する。AIの活用では、需要と供給の分析を高度化し、刻々と変化する国際情勢に貿易政策が追いつけるようにする。

分岐する経済予測

「Quick Big Win」戦略の発表後、タイの経済成長率予測に関して見解が分岐している。財務省は2025年のGDP成長率予測を2.2%から2.4%へ上方修正した。一方、タイ商工会議所合同常任委員会(JSCCIB)は1.8%~2.2%の予測を据え置いている。

JSCCIBは2025年の輸出増加を「幻想」と断じている。輸出の伸びが金の再輸出という付加価値の低い取引によって牽引されているためだ。金取引はタイ国内での雇用や原材料調達への貢献が極めて低く、実体経済にほとんど恩恵をもたらさない。

彼らが真に懸念しているのは、10.2%も伸びている輸入と脆弱な労働市場だ。特に新卒者の失業率が悪化しており、実体経済の体温は低いままだと見ている。

専門家が指摘する根本課題

タイ開発研究所(TDRI)は「Quick Big Win」の実効性について批判的な分析を行っている。政府が「Big Win」の一環として提示した「貯蓄くじ」のような短期的施策が、退職後の貧困という深刻な構造問題の解決になるのか、根本的な疑問を投げかけている。

タイ商業大学のアヌソーン教授は、タイが「流動性の罠」に陥るリスクを警告する。インフレ率は6ヶ月連続でマイナス、輸出は8月から減速の兆候を見せている。「Quick Big Win」は経済減速を緩和するだけで、根本的な解決にはならない。タイ経済は大規模な構造改革が必要で、総選挙後の新政府を待つことはできないと指摘する。

サイアム商業銀行のソムプラウィン首席エコノミストは「タイ経済は10年間症状を抱えている」と診断する。必要な改革は十分に理解されているが、タイの決定的な欠陥は実行力の欠如だ。成功する改革には、脱政治化されたメカニズム、真の国民参加、変化によって悪影響を受ける利害関係者の効果的な管理が必要だと強調する。

BKK IT Newsの見解

「Quick Big Win」戦略は短期的には確実に効果を発揮している。開始2週間で170億バーツという支出実績は、政策設計の妥当性を実証した。2025年第4四半期の経済収縮は回避される見込みで、小規模事業者は流動性危機を乗り切るための支援を得ている。

しかし中長期的な成否は別の次元にある。この戦略の本当の価値は、新政権が短期的成功によって得た「時間」と「政治的資本」を使い、痛みを伴う構造改革をどれだけ断行できるかにかかっている。

発表から2か月、実施から2週間が経過した現在、「Quick」の部分は成功の軌道に乗った。しかしタイは中所得国の罠に陥って30年以上が経過している。家計債務、低生産性、教育の劣化、10万以上の時代遅れの法律という構造的問題は、短期的な刺激策では解決しない。2026年3-4月の総選挙まで残された時間はわずかだ。アヌティン政権が「Quick」な成功で終わるのか、それとも真の「Big Win」を実現できるのか。タイ経済の未来がかかった「時間との戦い」の勝敗は、これからの数か月で決まる。

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