バンコクの鉄道網でEMV決済が導入されて3年が経過した。政府は「かざすだけで乗車できる」という便利さを謳い、グローバルスタンダードを採用したはずだった。しかし2025年11月現在、利用率は全体の13%に留まり、最大の課題は基幹路線を運営するBTSが参加していないことだ。
共通カードの失敗が招いた戦略転換
バンコクの通勤者は長年、BTSに乗るためのRabbit Cardと、MRTに乗るためのMRT Plusカードを携帯する不便さに悩まされてきた。政府は2018年、この問題を解決するため共通ICカード「Mangmoomカード」を導入した。しかしMangmoomカードは、BTSスカイトレインを統合するという最重要目標を達成できなかった。BTSが自社のRabbit Cardエコシステムを優先したため、事実上MRTと一部のバス路線でのみ利用可能なカードとなった。
この失敗を受け、タイ大量輸送公社(MRTA)とタイ政府は戦略を転換した。特定の共通カード規格を強制するのではなく、銀行システムの「EMV」非接触型決済を導入する道を選んだ。
EMV導入の現状と分断された路線網
EMVシステムの導入は2022年から段階的に進められた。2022年1月にMRTブルーラインとパープルラインで試験導入が開始され、その後SRTレッドライン、新規開業したMRTピンクラインとイエローライン、2025年10月にはエアポート・レール・リンク(ARL)が加わった。
しかし2025年11月現在、導入状況は路線運営者によって明確に二分されている。政府機関であるMRTAとSRTの管理下にある路線はEMV対応だが、バンコクで最も利用客の多い基幹路線を運営する民間事業者BTSは、EMVシステムに対応していない。
注目すべきは、MRTピンクラインとイエローラインだ。これらの路線は運営がBTSの子会社だが、EMVとRabbitの両方に対応している。この事実は、BTSの基幹路線でのEMV非対応が、技術的な制約ではなく、純粋に商業的・戦略的な決定であることを証明している。
モバイルウォレットが使えない技術的問題
EMVシステムは「かざすだけ」という利便性を謳っているが、技術的な問題がある。物理的なEMVカードでは問題なく利用できるにもかかわらず、そのカードを登録したApple PayやGoogle Payでは改札を通過できない。
この問題の背景には、バンコクMRTのEMVシステムと、モバイルウォレットのセキュリティ機能との間に根本的な競合がある。交通機関の改札は0.5秒以内で開く必要があるため、バンコクのEMVシステムは「オフラインデータ認証」を採用している。しかしApple PayやGoogle Payは、取引ごとに異なる「トークン」を生成する。利用者がTap-inすると「トークンA」が記録されるが、降車駅でTap-outしようとすると異なる「トークンB」が生成される。改札システムは入場記録がないためエラーとなる。
低迷する利用率とプリペイド戦略への転換
2022年の導入から2年半が経過した2024年7月時点でも、MRTの主要路線におけるEMV決済の利用率は、乗車全体のわずか13%にとどまった。この利用率の低迷には、モバイルウォレットの技術的問題、日常の交通費を銀行口座に直接紐付けることへの抵抗感、非接触型クレジットカードを所有していない層が多いことなど、複数の要因がある。
この期待外れの結果を受け、MRTAとクルンタイ銀行(KTB)は戦略を修正した。2025年8月、両者はプリペイド式の「Mangmoom EMV」カードを発表した。これは、Visaブランドを搭載したプリペイドEMVカードで、かつて失敗した旧Mangmoomカードとは全く別物だ。
このMangmoom EMVカードが重要である理由は、「割引運賃」を可能にする点にある。高齢者カードはMRT運賃が50%割引、学生カードは10%割引となる。
20バーツ均一運賃政策と法的強制による統合
タイ政府は、路線を乗り換えても、乗車1回あたりの運賃上限を一律20バーツに抑えるという政策を推進している。当初2025年10月1日開始予定だったが、関連法案の遅れにより、2025年11月中旬に延期された。
この政策の核心は、その「仕組み」にある。20バーツの割引を受けるためには、乗客は政府の「Tang Rat」アプリを通じて、事前に利用するカードを登録する必要がある。注目すべきは、Tang Ratアプリでの登録にはタイ国籍の13桁の市民ID番号が必須という点だ。この仕様により、全ての外国人が20バーツ均一運賃の対象から除外されている。
20バーツ政策が真に意味を持つためには、BTSを含む全ての事業者が参加することが不可欠だ。抵抗を続けるBTSに対し、タイ政府は法的強制力という最終手段を用いている。最も重要なのは「共通チケットシステム管理法」で、すでに下院・上院を通過し、官報掲載(施行)待ちだ。この法律は、BTSを含む全ての公共交通事業者に、政府が指定する共通チケットシステムへの参加を法的に義務付ける。
今後の展望と企業への影響
EMVの導入は、Rabbit対MRT Plusという従来の分断を解消するために始まった。しかし2025年現在、システムは新たな分断を生み出し、13%という低い利用率に直面している。
タイのEMV交通システムは、単なる「便利な決済手段」としてではなく、政府が補助金を管理・分配するための「政策実行ツール」として機能している。BTSグリーンラインという最後の砦の統合は、「共通チケット管理法」の施行により法的な義務となる。将来的には、QRコードによる決済の導入も計画されており、カードという物理メディアさえも不要になる可能性がある。
企業にとっては、デジタル決済環境の変化が重要な意味を持つ。EMV統合による決済データの統合管理は、従業員の交通費管理を効率化する可能性がある一方で、モバイルウォレットの技術的制約は、スマートフォンベースの経費管理システムを導入する際の課題となり得る。
参考記事リンク
- Powering Bangkok’s transport with contactless payment solutions – YouTube
- Mastercard collaborates with Mass Rapid Transit Authority of Thailand (MRTA) and Krungthai Bank Public Company Limited (KTB) to launch a contactless Tap and Go for The Metropolitan Rapid Transit (MRT)
- MRTA Bangkok launched a trial of cEMV payment system – Mobility Innovation Lab (MIL)
- KTB, MRTA team up for transport payment card – Bangkok Post
- Bangkok Transit Agency Disappointed with Open-Loop Adoption Rate with Credit Cards; Rolls Out Prepaid EMV Card – Mobility Payments


