Tourist DigiPayが実現する新観光戦略 ~タイが暗号資産をバーツに両替可能に~

Tourist DigiPayが実現する新観光戦略 ~タイが暗号資産をバーツに両替可能に~ ノマド
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タイで暗号資産を保有する観光客が、暗号資産をタイバーツに両替して決済できる「Tourist DigiPay」制度が、2025年第4四半期から18ヶ月間の試験運用を開始する。この制度は、中国人観光客の減少で低迷する観光業の活性化を目的とした経済刺激策だ。同時に、ASEANにおけるデジタル金融ハブ競争で優位性を確立するための戦略的な取り組みでもある。

発表までの経緯と背景

本制度の政策枠組みは、2025年8月18日にピチャイ・チュンハワチラ副首相兼財務大臣によって初めて公式に発表された。タイ経済は2025年に入り観光業の深刻な不振に直面していた。外国人観光客到着数は前年同期比で約7%減少し、観光収入も5.4%減少した。

最大の要因は中国市場の急激な落ち込みだ。タイ観光業2025年不振と地域競争で詳しく報じた通り、中国人観光客は前年比34%減少し、ベトナムやマレーシアに市場シェアを奪われる事態となった。2025年1月には1日平均21,380人だった中国人訪問者数が、上半期平均で1日12,000人へとほぼ半減した。

さらに、タイ観光、アジア観光戦争で劣勢で分析された通り、日本・マレーシア・韓国・ベトナムが台頭する中、タイはビザと価格戦略で後手に回っている。ピチャイ財務大臣は本制度の目的を「低迷する観光産業の活性化」と明確に述べている。政府の試算では、本制度が観光客の支出を10%増加させ、年間1,750億バーツ(約74.8億ドル)の追加経済効果を生むと期待されている。

Tourist DigiPayの運用の仕組み

本制度の最も重要な特徴は、暗号資産による直接決済を許可するものではない点だ。これは、金融安定性を最優先し、暗号資産の決済利用を一貫して禁止してきたタイ中央銀行(BOT)の方針を維持した結果である。

実際の仕組みは、外国人観光客が保有する暗号資産を、タイ証券取引委員会(SEC)が監督する認可済みデジタル資産事業者を通じてタイバーツに両替し、そのバーツをBOTが監督するe-Moneyウォレットにチャージするというものだ。観光客はタイ到着後にSEC認可のデジタル資産事業者で口座を開設し、マネーロンダリング対策事務局(AMLO)の厳格な基準に準拠した顧客確認(KYC)を受ける。

システムは二重のウォレット構造を採用している。暗号資産の売買を行うSEC監督下の「暗号資産口座」と、バーツの決済にのみ使用されるBOT監督下の「e-Moneyウォレット」が明確に分離されている。両替されたバーツはe-Moneyウォレットに入金され、観光客はタイ全土の店舗で既存のQRコード決済インフラ(PromptPayなど)を使用して支払いを行う。

対象となる暗号資産は、Bitcoin、Ethereum、およびTether(USDT)、USDCといったステーブルコインが例示されている。タイSECが2025年3月にUSDTとUSDCを公式な取引ペアとして承認していることから、実務上は価格変動リスクの低いステーブルコインが両替の中心的な対象となると見られる。

厳格なリスク管理措置

本制度は18ヶ月間のパイロットプログラム(規制サンドボックス)として実施される。SEC、BOT、AMLOという主要な金融・法執行機関3者の緊密な連携によって支えられている。

潜在的なリスクを封じ込めるために、当局は多層的な制限を課している。決済先のリスクプロファイルに応じて二段階の月額利用限度額を設定し、小規模ベンダーへの支払いは月額50,000バーツ、正規の事業者への支払いは月額500,000バーツまで可能だ。金・宝石店、カジノなどマネーロンダリングのリスクが高い業種での利用は禁止され、現金引き出しもできない。

観光客がタイを出国する際、ウォレットに残高がある場合、そのバーツは現金化できない。残高は入国時と同じ認可事業者を通じて暗号資産に再両替して持ち出さなければならず、この際の払い戻し額は当初入金したバーツの総額を超えることはできない。

導入を可能にした長期的基盤

本制度が短期間での実現が可能となったのは、タイが長年かけて築き上げた世界トップクラスのデジタル決済インフラの存在が大きい。2016年に開始されたPromptPayは、政府とタイ銀行協会が主導したリアルタイム決済システムであり、世界で最も急速に成長したインスタント決済サービスの一つだ。2021年にはシンガポールのPayNowとシステム連携を果たしている。

政府は、既存のPromptPay網に接続可能な「アダプター」としてTourist DigiPayのe-Moneyウォレットを設計した。これにより、観光客は導入初日から全国の何百万もの加盟店でシームレスに決済が可能となる。

タイは2018年にアジアで最も早期に暗号資産を法制化した国の一つとなった。一方、BOTは2022年1月に商品・サービスの決済手段としてデジタル資産を使用することを全面的に禁止するガイドラインを発表した。2025年3月のSECによるステーブルコイン公式承認は、Tourist DigiPayのような両替サービスを想定した戦略的な準備だった可能性が極めて高い。

地域における戦略的ポジション

タイのTourist DigiPayは、観光と暗号資産を結びつけようとする世界的な競争の中で、タイが選択した独自の戦略的ポジションを示すものだ。

2021年にエルサルバドルは世界で初めてBitcoinを法定通貨として採用したが、Bitcoinの極端な価格変動は国内経済に混乱をもたらし、2025年までにこの実験は国際的に失敗と見なされた。タイのモデルが暗号資産の決済利用を拒否し、バーツへの両替に固執するのは、エルサルバドル・モデルを明確に否定する意思表示である。

ドバイは、民間の決済プロバイダーのインフラに依存している。これに対し、タイは国家の決済インフラ(PromptPay)と中央銀行のe-Money規制に、暗号資産事業者を直接接続させている。タイの国家インフラ主導型モデルは、BOTとAMLOが決済レールを直接厳格に監督するため、民間ハブよりも強固なリスク管理が可能となる。

ASEAN域内では、シンガポールが機関投資家向けのカストディサービスを強化し、ベトナムは独自のデジタル資産交換所の法的パイロット導入が目前に迫っている。Tourist DigiPayは、観光という自国の最大の強みと暗号資産を組み合わせることで、ベトナムやシンガポールにはない独自のニッチ市場を開拓し、競争優位を確立しようとしている。

今後の展望と企業への影響

本制度が狙うのは、購買力が高いデジタルノマドや暗号資産投資家、Gen Zといった、これまでタイの観光政策が直接アプローチできていなかった層だ。タイ政府はプリビリッジ・ビザと税制優遇の戦略的融合で報じた通り、5年間のキャピタルゲイン税免除とビザを組み合わせた施策で暗号資産投資家の誘致を強化しており、Tourist DigiPayはこの戦略の延長線上にある。

従来の観光客は、現金両替や外国のクレジットカード利用時に高い手数料と不透明な為替レートに直面してきた。Tourist DigiPayは、この為替摩擦を実質的にバイパスし、よりシームレスで安価な消費を可能にする。

BOTにとって、この18ヶ月のサンドボックスは、暗号資産の流動性が自国の決済システムに接続された場合に生じうるリスクに関する貴重な実世界データを収集する国家的なストレステストである。このサンドボックスが成功すれば、確立された技術的・規制的プロトコルは、デジタルノマド向けの所得受領レール、暗号資産による不動産投資スキーム、外国直接投資の受け入れなど、より大規模な金融イノベーションへ転用可能である。

本制度は、タイ国内でSECからライセンスを受けたデジタル資産事業者にとって、新たなビジネス機会をもたらす。Binance TH(Gulf Binance)、Bitazza、Bitkubといった国内大手事業者は、この新たな巨大市場への参入に大きな期待を寄せている。この政策の巧妙さは、規制とインセンティブを直結させた点にある。収益性の高いビジネスへの参入チケットを得るための条件は、SEC、BOT、AMLOの厳格な規制を完璧に遵守することだ。

BKK IT Newsとしては、本制度が成功すれば、タイの観光・金融セクターに新たな成長機会をもたらすと見ている。一方で、規制サンドボックスの期間中に技術的・運用上の課題が明らかになる可能性もある。企業は本制度の動向を注視し、暗号資産保有者を対象としたサービス提供の機会を検討する価値があるだろう。

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