タイ、Googleと提携しAI教育を本格化 ~学生300万人にGoogle AI Proを無償提供、国家戦略の一環~

タイ、Googleと提携しAI教育を本格化 ~学生300万人にGoogle AI Proを無償提供、国家戦略の一環~ AI
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タイ政府がAI人材1,000万人育成という国家目標の実現に向けて、大きな一歩を踏み出した。

タイ王国デジタル経済社会省(MDES)とGoogle Cloudが2025年11月3日、戦略的提携を発表した。この提携により、タイの高等教育機関に在籍する18歳以上の学生約300万人に対し、プレミアムAIパッケージ「Google AI Pro」が1年間無償提供される。このパッケージは通常月額750バーツで提供されるもので、1人あたり年間9,000バーツの価値に相当する。

国家AI戦略における位置づけ

タイ政府は2022年から2027年までの「国家AI戦略」を推進している。当初の目標は6年間で3万人のAI人材育成だった。しかし、2023年以降の生成AIの急速な普及を受け、この目標は大きく見直された。

タイ開発研究所(TDRI)の2025年6月の分析によれば、新しい目標は大幅に拡大している。「AIデベロッパー」5万人、「AIプロフェッショナル」9万人に加え、新たに「AIユーザー」1,000万人という規模だ。今回のGoogle提携は、この1,000万人という野心的な目標を達成するための重要な手段となる。

MDESのチャイチャノック・チッドチョブ大臣は、本プログラムを「AI技術へのアクセスを国民の基本的権利として位置づける」ための第一歩と表現している。さらに政府は、次の段階として一般国民500万人以上への拡大(フェーズ2)を検討している。

Googleの継続的な投資戦略

今回の提携は、2023年11月からのGoogleとタイ政府の戦略的協力関係の延長線上にある。Googleはすでにバンコクにクラウドリージョンの設立を発表している。2030年までにタイのGDPに41億米ドル以上の貢献と、50,300人以上の雇用創出を見込む。

Googleは2024年に「Gemini Academy」プログラムを通じて、タイ全土で20,000人の教師にAI活用のトレーニングを実施した。今回の学生向けプログラムは、育成した指導員が待つ教育現場に、300万人の学生というユーザー基盤を一斉に投入する段階といえる。

GoogleがタイをAI教育の大規模展開地域に選んだ背景には、明確な理由がある。MDES大臣とGoogle Cloudタイランドのアッノップ・シリティクン代表は、「タイの一般消費者がGeminiアプリケーションを世界で最も創造的に、かつ最も高いエンゲージメント率で利用している」と述べている。タイは東南アジアにおいてAI導入率がトップクラスだ。特に18歳から24歳の若年層が、ChatGPTのようなAIツールを日常生活に積極的に取り入れている。

提供されるサービスの詳細

Google AI Proは単なるチャットボットではなく、Googleの最先端AI機能群を統合したプレミアムパッケージだ。主な機能は以下の通りである。

まず、最新のAIモデル「Gemini 2.5 Pro」にアクセスできる。このモデルは複雑な論理的推論、高度なプログラミング、科学・数学分野の難解な問題解決に特化している。

次に、Gemini AIの機能がGmail、Docs、Vids、Slides、Meetといった Google Workspaceアプリケーションに完全統合される。これにより、学生はレポートの草稿作成、講義内容の要約、プレゼンテーション資料の自動生成などを、使い慣れたツール内で直接実行できる。

さらに、AIを活用したパーソナルリサーチアシスタント機能「NotebookLM」が利用できる。学生は講義ノート、研究室のPDF論文、教科書のテキスト、YouTubeの講義動画のトランスクリプトをアップロードし、AIに分析・要約させることが可能だ。Pro版では、標準版と比較して扱えるソースやノートブックの数が5倍に拡張される。

「Deep Search」機能も含まれる。これは単一の回答ではなく、最大数百のWebサイトを横断的に分析し、複数の情報源からの引用を含む包括的なリサーチレポートを数分で生成する。

クリエイティブ機能として、テキストプロンプトから高品質な動画を生成する「Veo」や、写真を異なるアートスタイルに変換する「Remix」が利用できる。これらすべてのデータを保存するために、2TBのGoogle Oneクラウドストレージが付帯する。

実施体制と登録プロセス

対象となる学生は、2025年12月9日までに本プログラムへの登録を完了する必要がある。登録には第三者の学籍認証プラットフォーム「SheerID」を通じた認証が必要だ。

重要な点として、サービス利用には学生個人のGoogleアカウントを使用する。大学が発行する機関アカウントは直接使用しない。さらに、1年間の無料トライアルであるにもかかわらず、登録には有効な支払い方法(クレジットカードやデビットカードなど)の登録が必須となっている。

タイ国内の主要大学は、このイニシアチブを積極的に支援している。モンクット王工科大学ラートクラバン(KMITL)やタイ商工会議所大学(UTCC)などは、大学の公式ウェブサイト上で詳細な登録マニュアルを公開し、学生に利用を呼びかけている。

この登録プロセスには、Googleの戦略的な意図が含まれている。学生が卒業して機関アカウントを失っても、個人アカウントに紐づいたサービスは継続する。また、12ヶ月の無料期間終了後は、ユーザーが能動的に解約しない限り、自動的に月額750バーツの有料サブスクリプションへ移行する仕組みとなっている。

機会と課題

本プログラムがもたらす最大の機会は、デジタル格差の是正だ。月額750バーツの利用料を支払う経済的余裕がない学生にも、裕福な家庭の学生と同じ最先端のAIツールへのアクセスが保障される。これにより、経済格差が教育格差に直結する負の連鎖を断ち切る効果が期待される。

一方で、教育現場には新たな負荷がかかる。Googleは2024年までに2万人の教師を訓練したが、今回はその150倍にあたる300万人の学生に最先端のAI Proを提供する。この圧倒的なスケールの不均衡は、教育現場のキャパシティを超える可能性がある。

AIを高度に使いこなして学習を加速させる学生と、AIに単に依存するだけの学生との間に、新たな格差が生まれる懸念もある。多くの教育機関は、AIの利用を前提としたカリキュラムや評価方法の見直しを、極めて短期間で実行することを迫られる。

雇用市場への影響も長期的な視点で考える必要がある。本プログラムは学生にAIの使い方を教えるだけでなく、企業経営者にもAIの能力とコストを認識させる効果がある。高性能AIのコスト(月額約8,000バーツ)は新卒者の初任給(約20,000バーツ)を大幅に下回る。企業がこの経済性を理解すれば、翻訳、データ入力、初級プログラミングといったエントリーレベルの業務をAIに置き換える動きが加速する。新卒者がキャリアの最初の経験を積む機会が減少し、結果として人材育成のサイクル全体に影響が及ぶ可能性がある。

BKK IT Newsの見方

タイ政府は、国民のAIリテラシー向上という「マス教育」の実行を、実質的にGoogleという単一の民間企業にアウトソースする形となった。300万人の学生が特定のプラットフォームに集中することは、短期的には効率的だ。しかし、長期的な技術主権の観点からは検討の余地がある。

フェーズ2として500万人の一般国民への拡大が検討されている。その際には、複数のAIプラットフォームの選択肢を提供する、より多様なアプローチも考えられる。教育現場の支援体制強化と、AIを前提とした新しい評価基準の整備が、本プログラムの成否を左右する鍵となるだろう。

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