6000社の日系企業ネットワークと政策が生む共生関係
タイで日本のスタートアップによるビジネスパートナー探しが活発化している。この動きは一過性のものではなく、両国の経済政策と産業構造が合致した結果として生じた構造的なトレンドだ。
タイを目指す日本のスタートアップ
2025年10月31日、タイのテクノロジーメディアTechsauceは「日本のスタートアップがタイと東南アジアでビジネスパートナーを探している」と報じた。この報道は、日本貿易振興機構(JETRO)バンコク事務所の中小企業・スタートアップ支援部長である松浦永輔氏へのインタビューに基づいている。
松浦氏によると、タイには約6,000社の日本企業が存在している。これらの既存企業ネットワークは、日本のスタートアップにとって「既存顧客基盤」として機能している。タイの大企業側は、SaaS、Deep Tech、Green Tech、Climate Techの導入に強い関心を示している。
この動きは、2025年8月14日のタイ投資委員会(BOI)、JETRO、バンコク日本人商工会議所(JCC)の三者会合でも確認されている。会合の報告書には「スタートアップからの投資が顕著に増加している」と明記されている。
日本側の背景
日本のスタートアップが海外を目指す背景には、国内の構造的な課題がある。
日本政府は「スタートアップ育成5か年計画」に基づき、スタートアップの海外展開を国家戦略として推進している。経済産業省(METI)は、日本のスタートアップ・エコシステムが「イノベーティブな製品・サービスの国内市場が未成熟」「海外からのリスクマネー供給が限定的」といった内向きな構造的課題を抱えていると認識している。
この課題を克服するため、産業革新投資機構(JIC)は「Go Global」を優先投資分野の一つに設定した。JICは欧米やアジアの海外VCファンドにLP投資を行い、日本のスタートアップがグローバル展開するための基盤を構築している。
2025年上半期の日本のスタートアップ資金調達動向を見ると、調達総額は増加しているものの、50億円未満の小規模なディールの増加に支えられたものだった。企業あたりの調達額の中央値は、前年同期の8,360万円から6,790万円へと減少している。
この状況下で、スタートアップは成長資金と市場機会の両方を求め、成長著しいASEAN市場へ目を向けている。
タイ側の受け入れ体制
タイ政府が2016年に打ち出した国家開発戦略「タイランド4.0」が、日本のスタートアップを引き寄せる要因となっている。この戦略は、イノベーションと高付加価値産業へと経済構造を転換することを目的としている。
BOIがターゲットとする産業は、デジタル、医療、バイオテクノロジー、次世代自動車、スマートエレクトロニクスなどだ。これらは、日本のスタートアップが強みを持つ分野と一致している。
タイ政府は法人税の免除・減免、高度人材や投資家向けの「スマートビザ」および「LTRビザ」、簡易な事業登録などを提供している。特に2025年8月には、Deep Techスタートアップを誘致するため、新たな「税額控除」を承認した。
2025年現在、このトレンドを後押ししているのが、タイ初となる「スタートアップ事業推進法案」だ。この法案は2025年半ばに国会へ提出される見込みとなっている。国家イノベーション庁(NIA)の事務局長は、これを「スタートアップの聖書」と呼んでいる。
法案の主な内容は、スタートアップを明確に定義するデータベースの作成、スピーディーな許認可のための「ワンストップ・サービス」の設立、資金調達の柔軟化などを含む法的枠組みの整備だ。
連携の実態
日本のスタートアップとタイのパートナーシップは、日本のスタートアップとタイの大企業・財閥によるオープンイノベーションの形が主流だ。
代表的な事例が、GHG排出量の算定・可視化クラウドソリューション「Zeroboard」を提供するClimate TechスタートアップのZeroboardだ。
ZeroboardはJETROバンコクの支援を受け、タイ温室効果ガス管理機構(TGO)から排出量報告プラットフォームとしての公式認証を取得した。2025年3月には、タイ商業省やASEANジャパンセンターが主催するセミナーに登壇し、日本の知見を共有している。
現地法人を設立したZeroboardは、2024年から2025年にかけて、METIの支援プログラムの一環として、タイ国内の主に日系サプライチェーン企業に対し、GX人材育成トレーニングを提供している。
JETROの国際オープンイノベーション・プラットフォーム「J-Bridge」では、タイの大企業と日本のスタートアップのマッチングが進んでいる。2024年開催の「FastTrack」イベントには、PTT Group、PTT EP、Siam Kubota、IRPCなどタイの基幹産業企業が参加した。日本側からは、TBM、Algal Bio、AC Biode、Emulsion Flow Technologiesなどのスタートアップが参加している。
人材不足という課題
このトレンドには課題もある。最大の課題が「人材不足」だ。
タイは以前から深刻な技術人材不足に直面している。元首相タクシン・シナワット氏も、タイがAIを活用するには「技術コミュニティと基盤の構築が必要」であり、人材不足を公式に認めている。
タイのデジタル経済社会省(DEPA)が発表した「2025年第3四半期デジタル景況感指数」は、この問題を定量的に示している。回答企業は「デジタル人材問題とAIによるディスラプション」を主要な懸念事項として挙げている。「高スキル人材の獲得競争」が激化しており、「大企業が中小企業よりもコスト面で有利」であると指摘されている。
この逼迫した労働市場に、政府の支援や既存の企業ネットワークを背景に持つ日本スタートアップが参入する。タイのローカルスタートアップや中小企業と、同じ限られた高スキル人材のプールを奪い合うことになる。
今後の見通し
この動きは、70年にわたる日本の投資史という強固な土壌の上に、日本の国内政策とタイの国家戦略が合致した結果として生じた構造的なトレンドだ。
1985年のプラザ合意以降、数十年をかけて構築された製造業を中心とした「第一の波」が、タイ国内に世界屈指のサプライチェーンを構築した。2025年現在進行中の「第二の波」は、SaaS、Deep Tech、Green Techといったスタートアップが主役となっている。
彼らは、既存の製造業サプライチェーンが直面する課題、すなわちデジタルトランスフォーメーション(DX)とグリーン・トランスフォーメーション(GX)を解決するためのソリューションを提供している。
BKK IT Newsは、この「第二の波」が今後も継続し、「日タイ・イノベーション回廊」として両国の経済連携を強固なものにしていくと見ている。
ただし、持続可能な発展には課題への対応が必要だ。タイ側は人材育成への投資を加速させる必要がある。外国スタートアップの誘致政策の成功が、国内の人材枯渇を招き、エコシステム全体を停滞させるリスクがあるためだ。
一方で、進出する側も既存のネットワークを「活用」する視点が重要だ。6,000社の既存日系企業ネットワークは、ローカル企業と競争するための武器ではなく、自社ソリューションを試すテストベッドであり、最初の信頼できる顧客として位置づけることができる。
人材確保についても、高騰した賃金で人材を奪う戦略は持続不可能だ。現地の大学や職業訓練機関と連携し、長期的な人材育成パイプラインを共創することが、最大のリスクヘッジとなる。
参考記事リンク
- Why Japanese Startups Are Seeking Business Partners in Thailand And Southeast Asia – Techsauce
- BOI partners with Japan to drive investment in Thailand’s new trade era – Nation Thailand
- Zeroboard Inc.| Service site
- Thailand Startup Ecosystem 2025: Opportunities & Challenges – aboveA
- Growth Prospects for Trends in Japanese Startup Deals in First Half of 2025 – INITIAL


