2025年10月、Amazon Web Services (AWS)が発表した調査レポート「Unlocking Thailand’s AI Potential」は、タイのAI導入において重要な事実を明らかにした。タイ企業の32%がAIツールを導入している。この数字は前年の24%から33%増加し、導入ペースは速い。しかし、AI導入企業の72%が「探索段階」と呼ばれる基本的なユースケースに留まっている。レポート作成や情報要約といった単純な作業にAIを使っているだけだ。
タイのAI国家戦略とインフラ整備の経緯
タイ政府は2016年にThailand 4.0を発表した。この国家戦略は、タイ経済を労働集約型からイノベーション主導型へ転換することを目指している。AIはこの戦略の中核に位置づけられた。
2022年7月には国家AI戦略・行動計画(2022-2027年)が閣議承認された。この戦略は5つの柱で構成されている。AIガバナンス、AIインフラ、AI人材育成、AI研究開発、AI導入促進だ。政府は2027年までにAIの強固なエコシステムを確立することを目標としている。
2024年から2025年にかけて、民間企業による歴史的な規模のインフラ投資が実現した。Amazon Web Services (AWS)は15年間で50億ドル(約1.9兆バーツ)をタイに投資し、2025年初頭までにバンコクリージョンを開設する。Googleは10億ドルを投じてバンコクとチョンブリーにデータセンターとクラウドリージョンを建設する。Microsoftもタイに初のリージョナルデータセンターを開設し、10万人以上のタイ国民にAIスキルトレーニングを提供する計画を発表した。
これらの投資により、タイ国内のあらゆる企業が世界最先端のAIツールに低遅延でアクセスできる環境が整った。インフラのボトルネックは事実上解決された。
AWSレポートが示す「表面的導入」の実態
AWSの調査は、AI活用の成熟度を3段階に分類している。
第1段階は「探索」だ。AIを試験的に使用する段階で、レポート作成や情報要約といった単純なタスクに限定される。タイ企業の72%がこの段階にある。これらの企業はAIを既存業務の効率化にしか使っていない。
第2段階は「統合」だ。AIを財務や営業といった中核的な業務プロセスに組み込んでいる段階を指す。18%の企業がこの段階に達している。
第3段階は「変革」だ。AIを新しいビジネスモデルや新製品・サービスの創出に活用している段階だ。わずか10%の企業がこの段階に到達している。
この調査は、タイ国内に深刻な格差が生まれていることも明らかにした。スタートアップの40%がAIを中核に据えた新しい製品を開発している。一方で、大企業では16%、中小企業では9%しか同様の活用ができていない。スタートアップは既存のシステムや組織構造という「しがらみ」がない。そのため、AIネイティブな発想でビジネスモデルを構築できる。
大企業は豊富な資金を持ちながらも、レガシーシステムと組織的慣性が足かせとなる。その結果、AIを既存業務の効率化にしか利用できない。AIを導入している大企業のうち、包括的なAI戦略を策定しているのはわずか18%だ。
この「二層型AI経済」が固定化すれば、タイ経済全体のイノベーション創出能力に深刻な影響が出る可能性がある。
AI活用を阻む3つの障壁
AWSの調査は、より深いAI活用を妨げる障壁として、スキルギャップ、コスト、規制の不確実性を指摘している。
最大の障壁は人材不足だ。タイ企業の47%が「デジタルスキルの不足」を最大の障壁として挙げている。Thailand Development Research Institute (TDRI)は2025年6月の報告書で、8万人のAI専門家が不足していると指摘した。企業はAIスキルを持つ人材を確保するために、平均で36%の給与上乗せを支払う用意がある。
さらに深刻な問題が経営層に存在する。Deloitteが2025年に実施した調査では、タイの経営層・リーダーの95%が、生成AIに関する自身の専門知識が不足していると認識している。経営層がAIの可能性を理解していないため、包括的なAI戦略が策定されない。その結果、現場は明確な指示を受けられず、リスクの低い「探索的」な利用に終始する。
第2の障壁はコストだ。特に中小企業にとって深刻なジレンマとなっている。タイは2025年に最低賃金の引き上げを実施した。人件費の上昇に直面し、多くの中小企業はAIによる業務自動化を必要としている。しかし、業務プロセスを本格的に自動化できるAIシステムの導入には高額な初期費用がかかる。コスト削減のためにAIが必要なのに、そのAIを導入するためのコストが捻出できない。このジレンマの結果、多くの中小企業は無料または安価な生成AIツールでレポート作成を行うことしかできない。
第3の障壁は規制の不確実性だ。タイには国家AI戦略は存在するものの、AI固有の法律やリスクベースの規制メカニズムが欠如している。UNESCOが2025年に発表した分析は、2つの重大な「法的グレーゾーン」を指摘している。
1つ目は著作権法の曖昧さだ。AIモデルのトレーニングのために既存のデータセットを利用することが、著作権の例外として認められるかどうかが未定義のままだ。2つ目はデータ共有フレームワークの欠如だ。公共部門と民間部門の間でデータを共有するための統一された法的枠組みが不足している。
この法的不確実性により、企業は法的リスクを冒してまで高コストなカスタムAIを開発するインセンティブを失う。結果として、企業は法的リスクのない汎用AIモデルを使った「表面的」な活用に留まる。
タイ経済に及ぼす影響
この「表面的」な活用が続けば、タイ経済はいくつかの深刻なリスクに直面する。
労働市場では、AIによる雇用への影響がすでに現実となっている。2025年、カシコン銀行(Kasikornbank)は「AIによるディスラプション」を理由の一つに挙げ、45歳以上の従業員を対象とした特別早期退職プログラムを導入した。AIは単純労働だけでなく、経験豊富な中堅・ミドルマネジメント層のホワイトカラーの仕事を直接的に代替し始めた。Line Man Wongnaiはコールセンター業務にAIを導入し、約25%の自動化を達成した。これにより新規採用の必要性が減少している。
タイの労働市場は二層化しつつある。AIスキルを持つ人材には36%の給与上乗せが支払われる。一方でAIスキルに対応できない中堅・シニア層が早期退職を迫られる状況だ。
マクロ経済レベルでは、「生産性のパラドックス」のリスクが存在する。2025年現在、タイには数十億ドル規模のAIインフラ投資が流入している。しかし、そのインフラを利用する国内企業の72%は「表面的」な活用に留まっている。
East Asia Forumに掲載された2025年10月の分析は、この投資と成果のギャップを示している。ある経済モデルの試算では、タイが現在のAI投資レベルを経済的に正当化するには、AIがタイの労働生産性成長率を年間6.52%追加で押し上げる必要がある。しかし、タイの過去10年間の平均労働生産性伸び率は年間約2%に過ぎない。必要な成果と過去の実績の間には、現時点のAI活用レベルでは埋められない巨大な乖離がある。
ハードウェアへの投資だけが先行し、それを使いこなすための人的資本と戦略的ビジョンが決定的に不足している。このボトルネックが解消されなければ、巨額のインフラ投資は生産性向上に結びつかない可能性がある。
地域競争における立ち位置
タイ政府は国家AI戦略の下、「ASEANのAIハブ」になることを目標に掲げている。しかし、2025年のASEANにおけるAI導入の現実を見ると、この目標達成は厳しい状況にある。
ASEAN内のAI導入と成熟度は均一ではない。シンガポールが他国を圧倒している。2024年のBoston Consulting Group (BCG)のレポートが算出した「AI人材密度(労働者1,000人あたり)」を見ると、シンガポールは約3.5人、マレーシアは約0.5人、タイは約0.2人だ。タイのAI人材密度はシンガポールの17.5分の1に過ぎない。
ASEANにおけるAIベンチャーキャピタル投資の約75%がシンガポールに集中している。シンガポールがAI人材と資本の「ハブ」として君臨する一方で、タイは現実的にはベトナムやマレーシアと、インフラ投資を誘致し合う立場にある。
タイの現在の軌道は、AIを「生産」する国ではなく、海外で開発されたAIサービスを国内に新設された米国のデータセンター経由で利用する「消費」国になる道筋を示している。
今後の展望
タイがこの「表面的」な活用から脱却するには、国家の優先順位を「インフラ」から「人間」と「制度」の課題解決に移行することが求められる。
経営層のAIリテラシー強化が最優先課題だ。8万人の技術者不足への対策は重要だが、それ以上に緊急性が高いのは、AIを理解していない95%のリーダーだ。リーダーがAIの戦略的価値を理解しない限り、企業の72%は「探索段階」から抜け出せない。国家レベルでの経営層・政策決定者に対するAI戦略教育が考えられる。
法的グレーゾーンの解消も重要だ。開発者がリスクを恐れずカスタムAIを構築できるよう、AIトレーニングに関する著作権法の明確なガイドライン策定と、官民データ共有フレームワークの法制化が選択肢となる。
中小企業のAI導入支援も必要だ。タイ経済の基盤である中小企業が、最低賃金引き上げとAI導入コストのジレンマに陥るのを防ぐ必要がある。「探索段階」から脱却し、人件費削減に直結する「統合段階」のAI活用に進めるよう、AI導入の初期費用を直接補助するプログラムが考えられる。また、新設されたクラウドインフラを活用し、中小企業が安価に利用できる国家レベルのAIプラットフォームの整備も選択肢となる。
タイは最先端のインフラという「道具」を手に入れた。しかし、その道具を使いこなす「人材」と「ルール」と「ビジョン」がまだ不足している。BKK IT Newsの見解では、この人的資本と制度への投資が実現できるかどうかが、タイが「AI消費国」から「AI創造国」へ脱皮できるかの分岐点となる。
参考記事リンク
- Local AI growth threatened as a result of skills … – Bangkok Post
- AI ไทยโตเร็ว แต่ตื้นเขิน AWS ชี้ 72% ยังแค่ลองของ – The Story Thailand
- Thailand AI Readiness Assessment Report 2025 – TDRI: Thailand …
- Google Cloud Unveils $1B Thailand Investment, Following … – CRN
- Making Southeast Asia’s AI numbers stack up | East Asia Forum


