タイがAI主権に向けて動く ~ローカル言語モデルTyphoonが切り開く競争力~

タイがAI主権に向けて動く ~ローカル言語モデルが切り開く新たな競争力~ AI
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タイでローカル言語モデルの開発が本格化している。グローバルモデルと比較してコストが8分の1に削減され、タイ語の文脈理解で優位性を発揮する。国家AI戦略と民間の技術力が融合し、AI主権の確立を目指す動きは、中所得国の新たなモデルとして注目されている。

ローカルモデルが注目される理由

長年、タイ企業はAI技術の導入において海外で開発されたグローバルモデルに依存してきた。しかしこの状況は現在、国家的な戦略的リスクとして認識されるようになっている。2025年開催の「Techsauce Global Summit」では、SCB 10X、VISTEC、TDRIといった主要組織の代表者が集まり、この問題について議論を行った。

SCB 10XのAI戦略責任者カシマ・タンピピチャイ氏は、「我々は自らの手で問題を解決し、これらのモデルが特にタイ語でどのように機能するかをコントロールする必要がある」と述べた。中核となるのは、SCB 10Xが開発した大規模言語モデル「Typhoon」だ。

ローカルモデルを支持する最も直接的な理由は、その経済性にある。SCBXが銀行のリレーションシップマネージャーをトレーニングするために音声AIを導入した際、リアルタイムのOpenAIモデルと比較して、Typhoonを使用することでコストは8分の1に削減された。このコスト削減により、これまで一部の大企業のみが許容できた高コストな実験から、幅広いタイ企業が大規模に導入可能な実用的なツールへと変化している。

コストを超えて、ローカルモデルが持つ本質的な優位性は文脈理解の深さにある。SCBXのイノベーションラボ責任者ウィーリン・チャンタロジェ氏は、グローバルモデルを「タイ語を学ぶ外国人のような」と表現した。銀行のような、ブランドの信頼性と文化的なつながりがビジネスの根幹をなす業界において、不自然なコミュニケーションは許容されない。

タイ開発研究所(TDRI)の事例は、この重要性をデータで裏付けている。「AI」スキルを要求する職種を特定するタスクで、グローバルモデルは「AI」が「Adobe Illustrator」を指すのか「Artificial Intelligence」を指すのかを区別できず、大量の誤検出を発生させた。TDRIの研究者ナリン・タナニタポーン氏はこれを「文脈の根本的な失敗」と指摘している。国家の重要政策を誤った方向に導きかねない深刻な問題だ。

Typhoonの技術的進化と戦略

TyphoonはSCB 10Xによって2024年1月に正式に発表された。最初のモデル「Typhoon-7B」は、タイの高校レベルの標準試験においてGPT-3.5に匹敵する性能を示しつつ、タイ語のトークン処理効率においてはGPT-4を2.62倍上回った。

SCB 10Xは驚異的なスピードでモデルの反復開発を続けている。最新のTyphoon 2は、軽量な1Bモデルから強力な70Bモデルまで、5つのサイズからなるモデルファミリーを提供する。テキストだけでなく、画像や音声も扱えるマルチモーダル機能も導入している。

Typhoonの戦略の核心には、オープンソースコミュニティとの連携がある。事前学習済みモデルは、Apache 2.0ライセンスの下、Hugging Faceプラットフォームを通じて誰でも無料で利用できる。このオープンソース戦略は、タイ国内の開発者、スタートアップ、大学にとってLLM開発への参入障壁を下げる。一方で、信頼性や手厚いサポートを必要とするエンタープライズユーザー向けには、商用APIを通じて提供される。

国家戦略との連携

Typhoonプロジェクトは一企業の孤立したベンチャー事業ではない。タイの経済構造を変革するための、国家ビジョンの重要な構成要素だ。現在のAI推進の動きの礎は、2016年に発表された国家長期ビジョン「タイランド4.0」にまで遡ることができる。この政策は、タイが中所得国の罠から脱却し、イノベーション主導型の高付加価値経済へと移行するための国家戦略だった。

このビジョンは、「タイ国家AI戦略・行動計画(2022年~2027年)」という形で具体化された。計画は6年間で3万人以上のAI人材を育成し、2027年までに少なくとも480億バーツの経済的・社会的インパクトを創出し、政府AI準備度指数で世界トップ50入りを目指すとしている。

国家戦略がどのように実行に移されているかを示す例が、2025年6月に発表されたSCBXグループとタイ行政開発委員会(OPDC)との戦略的パートナーシップだ。この協業は、Typhoon LLMを活用して行政サービスのためのチャットボットを構築するパイロットプロジェクトから始まる。政府は戦略的な方向性を示し、大規模な実証の場を提供することで、技術の社会実装を加速させている。

社会実装と競争環境

SCBXとOPDCのチャットボット・パイロットプロジェクトは、全国の政府職員に24時間365日対応の情報アクセスを提供し、反復的な質問への対応や管理業務の負担を軽減する。その真の意義は、タイの官僚制度を応答性が高く、市民中心で、デジタル化に対応したシステムへと変革するという、より大きな国家目標の達成に向けた一歩であることだ。

教育分野では、AIツール「RISA」が注目されている。RISAは、教師が自由記述式の試験問題を採点する作業を支援し、最大90%の精度で採点業務を自動化することを目指している。企業での実用化も進んでおり、Typhoon OCRとLLMを活用した文書の自動分類、ソーシャルメディアへのコメント自動返信、人事管理システムの構築など、具体的なビジネス応用例が報告されている。

タイのAI市場は、国内外の多様なプレイヤーが競い合うダイナミックな空間だ。750億パラメータを持つ「JAI-1」や「OpenThaiGPT」といった国内競合が存在する。スタンフォード大学が主導する「ThaiExam leaderboard」によれば、Typhoon 1.5X Instructのようなトップクラスのタイ語モデルは、タイ語に特化したタスクにおいて、GPT-4 TurboやClaude 3 Sonnetといったグローバルモデルを上回る性能を示している。

しかし総合的に見れば、最新のグローバルモデルが依然としてトップを占めている。タイの戦略は、あらゆる面でグローバルモデルを凌駕することを目指すのではなく、コストパフォーマンスと、ローカルな文脈が決定的に重要な領域で優位に立つことに焦点を当てた、現実的なものだ。

中所得国モデルとしての意義

タイの戦略は、韓国のNAVERが自社の検索エンジンから得られる膨大な韓国語データを活用して「HyperCLOVA X」を開発した事例と類似性を持つ。SCBXも同様に、タイ語のデータと文化的な文脈という、グローバルな競合他社が容易には模倣できない強みを活用している。

タイはAI時代において中所得国がどのように競争しうるかについて、実行可能なモデルを示している。米国や中国のような大国と基礎研究開発で競うことは困難だ。その代わりに、グローバルなオープンソース技術を戦略的に活用し、自国の独自の言語・文化市場を中心に防御可能な堀を築く「主権的応用」に焦点を当てるアプローチだ。

この戦略の実行可能性は、政府の明確なロードマップと政治的意思、SCBXのような資本力と技術力を持つ民間企業による迅速な開発、そしてコストと文脈理解という国内企業が抱える具体的な課題への対応という3つの要素が強力に連携していることから、高いと評価できる。

今後の見通し

タイが地域のAIハブとしての地位を確立し、国内経済全体の生産性を向上させる可能性は大きい。将来的には、ラオスやカンボジアといった、同様に言語リソースが少ない近隣諸国にモデルや専門知識を輸出する可能性も秘めている。

企業にとっては、ローカルLLMを単なるコスト削減策としてではなく、文化的に共鳴する独自の顧客体験を創造するための戦略的ツールとして評価する選択肢がある。ハッカソンやパートナーシップ、開発者との直接対話を通じてローカルエコシステムに積極的に参加し、自社のビジネスニーズに特化したソリューションを共同で創造することも可能だ。

BKK IT Newsとしては、タイのAI主権への取り組みは、技術の受動的な消費者から、自国のデジタルの未来を能動的に設計する創造者へと変貌を遂げるための計算された賭けであり、その成否が今後数年で明らかになると見ている。

参考記事リンク

  • Thailand AI Advantage: Turning Sovereignty into a Competitive – https://techsauce.co/en/tech-and-biz/thailand-ai-advantage-local-models-enterprise
  • Typhoon Large Language Model – https://www.scb.co.th/en/about-us/news/jan-2024/scb-10x-typhoon
  • Thailand national AI strategy and action plan (2022 – 2027) – http://www.ai.in.th/en/about-ai-thailand/
  • SCBX Partners with OPDC to Launch “Typhoon” Thai LLM for AI Chatbot Pilot – https://www.scbx.com/en/news/typhoon-expand-gov-services/
  • ThaiExam Leaderboard in HELM – https://crfm.stanford.edu/2024/09/04/thaiexam.html