タイのクラウドサービス市場が急速に拡大している。2025年の29億米ドルから2033年には86億米ドルへと、約3倍の規模に成長する見込みだ。年平均成長率(CAGR)は14.5%と予測されており、タイ企業にとってクラウド活用は今後の競争力を左右する重要な経営課題となっている。
市場成長を支える複合的な要因
タイのクラウド市場の成長には、複数の要因が相互に作用している。
政府の国家戦略が最大の推進力となっている。「Thailand 4.0」構想と「デジタル政府開発計画」により、国全体のデジタル化が最優先課題と位置づけられた。2023年に閣議決定された「Cloud-First Policy」は、政府機関がITインフラを導入する際にクラウドを第一選択肢とすることを義務付けている。この政策により、公共部門からの安定的な需要が生まれている。
民間セクターでも大きな変化が起きている。COVID-19パンデミックを経て、Eコマースとフィンテック分野が爆発的に成長した。これらのサービスは膨大なトランザクションデータを処理する必要があり、スケーラブルなクラウドインフラが不可欠となっている。
データ保護への対応も重要な要因だ。2022年6月に個人データ保護法(PDPA)が完全施行され、企業はコンプライアンス遵守を迫られている。多くの企業が、安全なデータ管理を実現するために、高度なセキュリティ機能を備えたクラウドへの移行を選択している。
さらに5Gネットワークの全国的な普及により、AI、IoT、エッジコンピューティングといった先進技術の実用化が可能になった。これらの技術は膨大なデータを処理するための強力なクラウド基盤を必要とする。
グローバル企業の巨額投資競争
タイがASEANのデジタルハブとして台頭する上で決定的な要因となったのが、グローバルなハイパースケーラーによる巨額投資である。
Amazon Web Services(AWS)は50億米ドル以上を投資し、2025年にバンコクでクラウドリージョンを開設する計画だ。この投資により、GDPに約100億ドルの経済効果と年間平均11,000人以上の雇用創出が見込まれている。
Google Cloudも10億米ドルを投じ、バンコクとチョンブリー県にクラウドリージョンとデータセンターを建設する。2029年までにGDPに40億ドルの経済効果をもたらし、年間平均14,000人の雇用を創出すると予測されている。
Microsoftもタイ国内初のデータセンターリージョン建設を発表し、10万人以上のタイ国民に対するAIスキル育成プログラムも表明している。
これらの投資が集中した背景には、タイ政府の巧みな誘致戦略がある。シンガポールが2019年に新規データセンター建設を一時停止したことで、代替地を探す需要が生まれた。タイは安定した電力供給、安価な土地、そして米中両国との良好な関係という地政学的優位性を活かし、投資先として選ばれている。
2024年11月時点で、タイ投資委員会(BOI)には46件、総額1,679億バーツ(約45億ドル)のデータセンター関連の投資申請が寄せられている。
市場セグメントと地域的特性
サービスタイプ別では、Infrastructure-as-a-Service(IaaS)が市場の中心となっている。多くの企業が自社の物理的なITインフラをクラウド上の仮想インフラに移行する段階にある。Platform-as-a-Service(PaaS)やSoftware-as-a-Service(SaaS)も、企業のDX推進を背景に着実に成長している。
展開モデル別では、コスト効率と導入の容易さから、パブリッククラウドが市場の大部分を占めている。特に中小企業(SME)やスタートアップにとって、初期投資を抑えられるパブリッククラウドはDXの重要なツールとなっている。一方、金融機関や政府機関では、プライベートクラウドやハイブリッドクラウドの採用が進んでいる。
地域的には、バンコク首都圏と東部経済回廊(EEC)が成長のエンジンとなっている。バンコクには大企業やスタートアップが集中し、高速な通信インフラと最先端のビジネスアプリケーションへの需要が旺盛だ。EECは次世代産業の集積地として開発が進み、スマート製造や高度な物流を支えるクラウド統合が急速に進展している。
EECではデータセンターとスマートファクトリーの物理的な近接性により、低遅延でのリアルタイム処理が可能となる。この優位性が製造業のデジタル化を加速させている。
成長の裏に潜む深刻な課題
急成長する市場には、克服すべき課題も存在する。
サイバーセキュリティの脅威が深刻化している。Check Point Software Technologies社の報告によると、タイの組織が受けるサイバー攻撃の数は世界平均より70%も多い。2024年には73万件以上のサイバー攻撃が観測され、前年から125.91%増加している。病院、航空会社、銀行、政府機関などが標的となっており、生成AIを利用した攻撃手法の高度化も進んでいる。
PDPAコンプライアンスも企業にとって大きな課題だ。2024年以降、個人データ保護委員会(PDPC)は法執行を本格化させ、多くの企業に高額な罰金が科されている。セキュリティ対策の不備、データ漏洩の未報告、データ保護責任者(DPO)の未設置などが主な違反内容となっている。
デジタルデバイドも深刻な問題だ。特に高齢者と地方在住者の取り残しが顕著で、75歳以上のインターネット利用率は15%未満に留まっている。地方に住む高齢者の44.2%はインターネットにアクセスできない環境にある。
専門人材の不足も市場の成長を阻む要因となっている。クラウドアーキテクト、AIエンジニア、サイバーセキュリティ専門家などの高度なスキルを持つ人材の育成が追いついていない。
今後の展望と企業の対応策
タイのクラウド市場は、今後10年間にわたり高い成長を続ける見込みだ。市場規模だけでなく、デジタル経済全体のGDPに占める割合も、2023年の約6%から2027年には11%へと倍増すると予測されている。
BKK IT Newsとしては、企業はクラウド導入を単なるコストの削減策ではなく、ビジネスモデルを変革する戦略的な投資として位置づけるべきと考える。
まず、PDPAコンプライアンスを「遵守すべき規制」から「顧客の信頼を得るための投資」へと意識を転換することが重要だ。厳格なデータ保護体制を構築し、それを顧客にアピールすることで、他社との差別化が可能になる。
サイバーセキュリティ対策も経営の最優先課題の一つとして取り組む必要がある。ゼロトラストアーキテクチャの導入など、進化する脅威に対応できる防御体制の構築が求められる。
社内人材のリスキリング・アップスキリングへの投資も欠かせない。AWSやMicrosoft、Googleといった企業が提供する大規模な人材育成プログラムの活用も選択肢の一つだ。
中小企業にとって、クラウドは大企業との競争の土俵をより平等にする可能性を秘めている。高額な初期投資が必要だったERPやCRMといった高度なITシステムを、安価な月額料金で利用できるようになった。この機会を活かし、業務効率化と新たな市場へのアクセスを実現することが、今後の競争力を左右する。
タイのクラウド市場の物語はまだ序章に過ぎない。インフラ構築から付加価値サービスの創出へと競争の焦点が移行し、デジタル経済とリアル経済の融合が他の産業分野にも波及していく。セキュリティ、人材、格差といった課題をいかに克服できるかが、タイがASEANのデジタルリーダーとしての地位を確立できるかを決定づけるだろう。
参考記事
- Thailand Cloud Service Market Size, Share, Trends & Forecast
- Synnex targets booming cloud market for growth – Bangkok Post
- Thailand’s Cloud-First Policy: Legal Landscape and Strategic Implications – MPG
- AWS Launches Infrastructure Region in APAC, Plans US$5 Billion Thailand Investment
- Historic crypto heist highlights Thailand’s cybersecurity crisis – Nation Thailand


