タイ観光業、岐路に立つ ~2025年不振と中国人観光客の需要シフト、地域競争の現実~

タイ観光業、岐路に立つ ~2025年不振と中国人観光客の需要シフト、地域競争の現実~ タイ政治・経済
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タイの観光業が厳しい局面を迎えている。2025年1月から9月までの外国人観光客数は2,411万人で、前年同期比7.56%減少した。観光収入も5.85%減と深刻な落ち込みを見せている。

中国人観光客の急減が示す構造変化

不振の核心にあるのは、中国人観光客の急激な減少だ。2025年1月から9月の中国人観光客数は341万人で、前年同期比34.97%の大幅減少を記録している。パンデミック前の2019年には全外国人観光客の約28%を占めていた中国人観光客のシェアは、2025年には13.6%にまで急落した。

この結果、タイは東南アジアにおける中国人観光客の主要渡航先という地位をマレーシアに明け渡すこととなった。長年タイ観光業の最大の牽引役だった中国市場の崩壊は、単なる数字以上の意味を持つ。

中国人観光客の減少要因は複合的だ。第一に、安全性への懸念が深刻化している。2023年に公開された中国映画『孤注一擲』が東南アジアの詐欺や人身売買を描いたことで、タイに対する否定的なイメージが広がった。サイアム・パラゴンでの銃撃事件や中国人俳優の誘拐事件といった現実の事件がこのイメージを補強し、中国のソーシャルメディアで拡散されている。

第二に、経済的要因が旅行意欲を削いでいる。タイバーツ高により、中国人観光客にとってタイ旅行は前年比で20%も割高になった。さらに中国国内の経済状況悪化と不動産市場の不振が消費者心理を冷え込ませている。

第三に、中国人旅行者の嗜好が構造的に変化している。大規模な格安団体旅行の時代は終わり、本物の体験を求める個人旅行者が主役となりつつある。これらの旅行者は、画一的な観光地訪問よりも、その土地ならではの文化的な触れ合いを重視する傾向が強い。

地域競争の激化と新たな勢力図

タイが苦境に陥る中、ベトナムとマレーシアが急速に存在感を増している。

ベトナムは2025年上半期だけで1,070万人の外国人観光客を受け入れ、観光ブームに沸いている。コストパフォーマンスの良さに加え、新しい個人旅行者層から「タイよりも混雑が少なく、よりローカルで本物の体験ができる」と認識されていることが強みだ。中国語の案内表示やマンダリンを話すスタッフの配置、新たな祭りの開催など、中国人旅行者のニーズに積極的に対応している。

マレーシアは2025年、東南アジアで中国人観光客が最も多く訪れる国となった。2026年末まで有効な中国人観光客向けビザ免除措置が成功の最大の推進力となっている。この政策は旅行計画における障壁を完全に取り払い、マレーシアを「手軽に行ける国」として強く印象付けた。

一方、日本は円安という追い風も受けつつ、高い安全性とサービスの質に対する評価から、中国人観光客にとって引き続き人気の旅行先となっている。

タイが直面しているのは、多層的な競争環境だ。低価格・体験価値を求める層はベトナムに、高品質・安心を求める層は日本に、手軽さを求める層はマレーシアに、それぞれ顧客を奪われている。

タイ政府の対応策と課題

タイ政府とタイ国政府観光庁は、3億バーツの予算を投じて「Trusted Thailand」キャンペーンを開始した。世界的に著名なセレブリティやインフルエンサーを起用し、安全な観光地としてのタイをアピールしている。観光警察はAIを活用した犯罪者検知システムを導入し、ハード面での安全対策も強化している。

短期的な需要喚起策として、中国の地方都市からのチャーター便に対し1便あたり35万バーツの補助金を支給する「Thailand Summer Blast」プログラムも実施されている。さらに、中国との間で恒久的な相互ビザ免除協定を導入した。

しかし、ビザ免除政策は深刻な副作用をもたらしている。ビザなし入国の容易さを悪用し、タイを近隣諸国での詐欺への経由地として利用したり、違法活動を行ったりする事例が報告されている。安全なイメージを訴求する「Trusted Thailand」キャンペーンと、犯罪者の入国を容易にするビザ免除政策の矛盾が、政策上のジレンマを生み出している。

また、チャーター便への補助金は、業界が目指すべき「量から質へ」の転換とは逆に、低収益なマスツーリズムモデルへの回帰を促しかねない。

経済への波及と業界の変革

観光業の不振はタイのマクロ経済全体に影響を及ぼしている。カシコンリサーチセンターは、観光業の減速が経済回復の足かせとなっているとして、2025年のGDP成長率予測を抑制的に見ている。2025年第3四半期の観光関連施設の平均収益は2019年同期のわずか44%に留まっており、多くの中小企業が深刻な経営圧迫に直面している。

ホスピタリティ業界では、危機を契機とした戦略的進化が進んでいる。中国人団体旅行客の消失により、多くのホテルが稼働率と収益の低下に苦しんでいる。大手不動産デベロッパーは、Z世代に代表される新たな旅行者層をターゲットとした投資を加速させている。これらの層は、画一的な豪華さよりもユニークで本質的、かつサステナブルな体験を重視する。

競争軸は客室料金の安さから、コンセプト、ブランディング、持続可能性といった付加価値へとシフトしている。ユニークな体験を提供する「ライフスタイル・ハブ」やブティックホテルの開発が活発化しており、新しい体験主導型の旅行トレンドへの適応が進んでいる。

これからの道筋

BKK IT Newsとして、この危機は短期的には痛みを伴うものの、長期的にはタイ観光業が構造的な転換を遂げる契機になる可能性があると考えている。

中国人団体旅行客への過度な依存というモデルは、脆弱で持続可能性に欠けていた。この巨大市場の崩壊は、必然的にイノベーションと適応を促している。不動産デベロッパーは新たな価値観を持つ高付加価値な顧客層を惹きつけるための新しいコンセプトに投資し、政府はインドや中東といった新たな市場との関係構築を進めている。

今後、いくつかの方向性が考えられる。まず、広報キャンペーンだけでなく、安全性への懸念の根本原因に直接対処することが選択肢として挙げられる。観光警察の機能強化と成果の可視化、観光アクティビティに対する透明性の高い規制の導入などだ。

次に、タイ独自の価値を再定義する道もある。ベトナムのコストパフォーマンスや日本の高品質・高信頼性とは異なる競争優位性の確立だ。世界クラスのウェルネス・医療ツーリズム、比類なき食文化、奥深い文化遺産といった強みを、現代の個人旅行者のニーズに合わせて再パッケージ化することが考えられる。

さらに、市場の多様化を継続しつつ、中国市場では高付加価値な個人旅行者セグメントに焦点を絞って戦略的に関与し直す選択肢もある。中国独自のデジタルプラットフォームを駆使した高度なデジタルマーケティングと、富裕層やウェルネス志向層の嗜好に合わせたニッチな商品の開発が鍵となる。

加えて、デジタル技術を駆使する自律的な個人旅行者に対応するため、シームレスな決済システムや多言語対応の旅行アプリといったデジタルインフラへの投資、語学力やデジタル・ホスピタリティ・サービスのスキル向上といった人材育成も方向性の一つだろう。

2025年の危機は、タイ観光業がより多様で、強靭で、高付加価値な産業を構築するきっかけとなる。この転換を成功させるには、断片的な対症療法ではなく、経済成長、環境保護、社会の安定という三つの要素の間に持続可能なバランスを見出す、統一された長期的な国家観光戦略が求められている。

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