2025年半ば、タイで初となる「スタートアップ事業推進法案」が国会に提出される見込みだ。この法案は、タイが「中所得国の罠」から脱却し、イノベーション主導型経済への転換を実現するための重要な一歩となる。
法案の背景と目的
この法案は、2016年から推進されてきた国家戦略「タイランド4.0」の集大成とも言える取り組みだ。タイランド4.0は、従来の観光、製造業、農業といった伝統的産業に依存した経済構造から、イノベーションとテクノロジーを成長エンジンとする経済への転換を目指している。
これまで、タイのスタートアップは国家イノベーション庁(NIA)、デジタル経済振興庁(DEPA)、タイ投資委員会(BOI)など、複数の政府機関から断片的な支援を受けてきた。しかし、一元化された法的枠組みが存在しなかったため、エコシステム全体の発展が阻害されていた。本法案は、この状況を打開し、スタートアップのための包括的な法的インフラを構築することを目的としている。
法案の主要内容
全55条から構成される本法案は、スタートアップエコシステムのあらゆる側面をカバーする設計となっている。
明確な定義とデータベース化
法案の基礎的な要素として、「スタートアップ」の明確な法的定義が確立される。これまで、スタートアップと伝統的な中小企業(SME)は曖昧に混同されてきたが、定義の明確化により、税制優遇や規制緩和といった便益を、真にイノベーションを志向し急成長を目指す企業に的確に届けることが可能になる。また、国内のスタートアップを網羅した国家データベースが創設され、政策立案の精度向上や投資家とのマッチング促進が期待される。
スタートアップ事業振興委員会の設置
本法案により、国家のスタートアップ戦略を司る最高意思決定機関として「スタートアップ事業振興委員会」が新設される。この委員会は、政府機関の代表、民間セクターの専門家、有識者で構成され、国の科学技術・イノベーション政策と整合性を保ちながら、国家レベルの政策や戦略を策定・監督する役割を担う。
NIAのワンストップサービス化
国家イノベーション庁(NIA)は、法案成立後、スタートアップ振興の「主要機関」として正式に指定され、真の「ワンストップサービス」センターへと変貌する。スタートアップの登録受付、各種便益の申請窓口、国内外の投資家からの問い合わせ対応、関連省庁との調整など、スタートアップに関連するあらゆる手続きを一元的に担う。これにより、起業家は複雑な行政手続きから解放され、事業そのものに集中できる環境が整う。
スタートアップと投資家への具体的便益
税制優遇措置
適格なスタートアップへの投資から得られるキャピタルゲインに対する10年間の非課税措置が制度化される見込みだ。これは、国内外のベンチャーキャピタル(VC)、コーポレート・ベンチャーキャピタル(CVC)、エンジェル投資家を惹きつける強力なインセンティブとなる。法人税の減免や各種規制の簡素化も盛り込まれる予定だ。
資金調達の柔軟化
タイのスタートアップが直面する最大の障壁の一つが、100年以上の歴史を持つ民商法典に起因する資金調達の困難さだった。この法律は、現代的なベンチャーファイナンスで標準的に用いられる手法、例えば優先株の発行、転換社債型新株予約権付社債の活用、従業員向けストックオプション制度の設計などを想定していない。
本法案は、スタートアップに限定して、これらの現代的な資金調達手法を可能にする特別な法的メカニズムを創設する。これにより、タイのスタートアップは、シンガポールや米国のデラウェア州で設立された企業と遜色のない条件で、グローバルな投資家から資金を調達する道が開かれる。
タイが直面していた構造的課題
シンガポールへの流出問題
民商法典の制約と外国事業法(FBA)の資本規制が組み合わさった結果、タイで生まれた有望なスタートアップが法人登記をシンガポールで行う「頭脳と資本の流出」が深刻な問題となっていた。その典型例が、決済プラットフォーム大手の2C2Pだ。タイで事業を拡大しながらも、グローバルな資金調達と柔軟な資本政策を求めて、法人格はシンガポールに置かざるを得なかった。
シンガポールが選ばれる理由は明確だ。英語が公用語であり、英国のコモンローに基づく法体系は、国際的な投資家にとって透明性が高く予測可能である。加えて、種類株式の発行やストックオプション制度の設計が容易で、投資契約の自由度が高い。
本法案は、シンガポールが提供する法的優位性を模倣し、タイ国内で同等の環境を再現しようとする試みと言える。有望なスタートアップを国内に繋ぎ止め、国外への価値流出を食い止めることが、法案の重要な目的の一つだ。
資金調達の構造的問題
タイのスタートアップエコシステムは、シード期やプレシリーズAといった初期段階の資金調達は比較的活発である一方、事業を本格的に拡大させるシリーズB以降の後期ステージにおける資金調達が極めて困難という問題を抱えている。
また、タイではスタートアップへの投資の約80%が、国内の巨大コングロマリット系のコーポレート・ベンチャーキャピタル(CVC)によって占められているという調査結果もある。CVCからの投資は大企業の事業とのシナジー創出や迅速な市場アクセスといったメリットがある一方、評価額が抑制されたり、将来的なM&Aの選択肢が限定されたりする可能性がある。
本法案は、キャピタルゲイン非課税などのインセンティブを通じて、これまでタイ市場への参入を躊躇していた国内外の独立系VCを呼び込み、投資家の多様性を高めることを目指している。
重点成長分野への支援
政府は、本法案を通じて特に戦略的な成長が見込まれる分野への支援を集中させる方針を明確にしている。AI、Deep Tech、アグリテック、ヘルステック、フィンテック、そしてグリーン・クライメートテックが重点成長分野として特定されている。
Deep Techへの期待
タイは100社のDeep Techスタートアップを創出し、この分野で地域ハブとなるという目標を掲げている。Deep Techは基礎研究に基づく革新的な技術を核とするため、研究開発に長い時間と莫大な資本を要し、事業化のリスクも高い。現在のタイのエコシステムはアプリケーション開発が中心で、Deep Tech分野は手薄だと指摘されている。
本法案がもたらす長期的な視点に立った投資の誘致、研究開発支援、そして大学との連携強化は、この困難な分野が花開くための土壌となる可能性がある。
AIハブ化の推進
タイ政府は国を挙げてAIハブ化を推進しており、その一環として世界的な巨大テック企業による大規模データセンターの誘致に成功している。しかし、巨大なインフラを整備するだけでは真のAI国家にはなれない。本法案は、この新たなインフラを活用し、タイ独自のAIソリューションを開発する国内スタートアップのエコシステムを育成する上で重要な役割を果たすだろう。
東南アジアにおける競争環境
シンガポールとの関係
東南アジアのスタートアップエコシステムにおいて、シンガポールが絶対的なベンチマークであることは論を俟たない。タイの新戦略は、この地域の巨人を意識した「追随」と「差別化」の二本柱で構成されている。
法制度の近代化は、明らかにシンガポールの成功モデルを意識したものだ。ビジネスフレンドリーな環境、魅力的な税制優遇、透明で予測可能な規制といった、シンガポールが長年かけて築き上げてきた強みを、タイは法案を通じて取り込もうとしている。
一方で、タイはシンガポールを単に模倣するのではなく、独自の強みを活かした差別化を図る。タイの競争優位の源泉は、シンガポールに比べて格段に低い事業運営コスト、6,700万人を超える巨大な国内市場、そして農業、食品、ウェルネス、観光といった特定の産業分野における深い知見と集積にある。
他のASEAN諸国との比較
巨大な人口を背景に急成長するインドネシアや、豊富なIT人材を擁するベトナムも、強力なライバルだ。インドネシアはASEAN最大の市場規模を誇り、特にEコマースとフィンテック分野で活気あるスタートアップシーンを形成している。ベトナムはソフトウェア開発における人材の豊富さと質の高さで注目を集めている。
これらの高成長市場と比較した際、タイはより成熟し安定した事業環境と、高度に整備されたインフラを提供できる点で差別化を図る。タイの戦略は、スタートアップの「量」を追うのではなく、Deep Techのような「質」の高い、高付加価値なイノベーションを創出することに重点を置いている。
今後の展望
本法案の成立は、タイが地域のイノベーションハブとなるための必要条件を満たす重要な一歩となる。しかし、最終的な成功は法案の理念をいかに現実に落とし込めるか、すなわち「実行」にかかっている。
NIAのワンストップサービスが名実ともに機能するか、各種許認可が迅速に行われるか、そして新法が一貫性をもって適用されるか。これらが成否を分ける鍵となる。
また、法律では変えられない、より根深い課題も存在する。専門家からは、タイの政府や社会に根付く「リスク回避的」な文化が、挑戦と失敗を許容するイノベーションの精神を阻害しているとの指摘がある。法律はゲームのルールを変えることはできるが、プレイヤーの心構えを変えるには、教育や成功事例の称揚を通じた、より長期的な取り組みが必要となるだろう。
それでもなお、本法案がタイの競争力を高めることは間違いない。これまで最大の弱点であった法制度インフラの面で、競合国と対等な土俵に立つことを可能にするからだ。これにより、タイが本来持つ強み、すなわち市場規模、地理的優位性、特定産業における専門性が、最大限に発揮される可能性がある。
参考記事リンク
- ปรากฎการณ์สร้าง’ตลาด’ ส่งสตาร์ทอัพไทยไปสู่โลกขับเคลื่อน’กฎหมายสตาร์ทอัพ’ฉบับแรกของไทย – แนวหน้า
- ยกร่าง พ.ร.บ.ส่งเสริมธุรกิจ Startup ครั้งแรก จัดเต็ม 55 มาตรา – ฐานเศรษฐกิจ
- Built in Thailand, funded in Singapore, as startups gravitate to city-state – The Business Times
- Thailand Startup Ecosystem 2025: Opportunities & Challenges – aboveA
- Firming up Thailand’s startup ecosystem – Boston Consulting Group