日本のゲームQA大手デジタルハーツホールディングスがタイに子会社を設立する。2025年10月中の設立を予定しており、アジア地域におけるローカライゼーションサービスの主要拠点として機能する見込みだ。
デジタルハーツのタイ子会社設立
2025年10月15日、株式会社デジタルハーツホールディングスはタイのバンコクに子会社「DIGITAL HEARTS Bangkok Co., Ltd.」を設立すると発表した。新会社の事業内容はゲームのローカライゼーション(現地語化)とLQA(言語品質保証)を中核とする。
デジタルハーツはこの子会社をタイ市場向けの拠点としてだけでなく、アジア地域におけるローカライゼーションサービスの主要拠点として位置づけている。タイ国内の需要に応えるだけでなく、東南アジア全域の言語サービス需要に対応する地域ハブとしての役割を担う。
将来的にはデバッグやマーケティング支援といったバリューチェーンの他領域にわたるワンストップソリューションの提供も視野に入れている。
過去のタイ進出と今回の違い
デジタルハーツは2011年12月にも「DIGITAL Hearts (Thailand) Co., Ltd.」を設立しタイ市場に進出した経緯がある。当時の目的はコスト競争力の強化であり、子会社は主にデバッグやQAテストを担う作業拠点として位置づけられていた。
しかし2017年10月に同社のタイ子会社は閉鎖された。公式な資料には閉鎖の理由は詳述されていないが、コスト競争を軸としたビジネスモデルが収益性や戦略的目標を達成できなかった可能性が高い。
今回の再進出は戦略、技術、市場環境の三つの側面で2011年の試みとは根本的に異なる。コスト削減を目的とした作業拠点から、付加価値創出を目的としたローカライゼーションハブへと転換している。
特に大きな違いはAI翻訳エンジン「ella」の存在だ。2011年の挑戦時には存在しなかったこの独自技術が今回の事業の根幹をなす。
AI翻訳エンジン「ella」の競争優位性
デジタルハーツは株式会社ロゼッタと共同開発したゲーム特化型AI翻訳エンジン「ella」を保有している。このエンジンは従来の機械翻訳では困難であったキャラクターの個性、口調、感情といったニュアンスの表現を可能にした。
「ella」の活用により、翻訳者一人当たりの1日の平均作業量を従来の約2倍に引き上げることが可能となる。大規模な翻訳プロジェクトにおいては英語への翻訳時間を最大75%、アジア言語への翻訳時間を約40%短縮できる。
サービスは既にFIGS(フランス語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語)や主要アジア言語を含む9言語に対応している。タイ語への対応も視野に入れた展開が予想される。
労働力依存のビジネスモデルは現地の賃金上昇や競合の出現に対して脆弱だが、技術主導のモデルはスケーラビリティと持続的な競争優位性をもたらす。「ella」はデジタルハーツが過去の撤退要因となった課題を克服し、より強固な事業基盤で市場に再挑戦するための切り札となる。
タイゲーム市場の成長ポテンシャル
タイのゲーム市場は東南アジアにおいて最大級かつ最も急速に成長している市場の一つだ。2025年の市場規模に関する予測は多様だが、カシコン・リサーチ・センターは361億バーツ(約1,580億円)、PwCは522億バーツ(約14億ドル)と予測している。
特に注目すべきは、タイがアプリ内課金(IAP)収益において東南アジア地域でトップを走っている点だ。2025年第1四半期だけで1億6,200万ドルの収益を上げており、タイのゲーマーがゲームコンテンツに対して高い支出意欲を持っていることを示している。
市場の収益構造はモバイルゲームが圧倒的な中心であり、全体の60%から80%を占める。このモバイルファーストの市場構造は多言語での世界同時リリースが標準となりつつあるモバイルゲーム業界のトレンドと一致しており、高品質なローカライゼーションサービスへの需要を高めている。
タイ語ローカライゼーションへの明確な需要
タイ市場の際立った特徴は、タイ語でコンテンツを楽しみたいというゲーマーの強い嗜好である。これはタイの英語能力指数が世界113カ国中101位と非常に低い水準にあることに起因する。
多くのプレイヤーが母国語でのプレイを望んでいるにもかかわらず、人気ゲームの多くが公式にはタイ語にローカライズされておらず、そのギャップを非公式のファン翻訳が埋めている。これはプロフェッショナルで高品質なローカライゼーションサービスに対する満たされていない需要が存在することの証拠である。
タイ市場で成功を収めるためには単なる言語の置き換えでは不十分だ。タイ文字の表示に対応したUI調整、TrueMoney WalletやPromptPayといった現地で普及している決済手段の導入、ソンクラーンのような文化的な祭事に合わせたゲーム内イベントの開催など、深いレベルでの文化的適応が不可欠となる。
タイ政府による投資優遇措置
タイ政府はデジタルコンテンツ産業の育成を強力に推進している。タイ投資委員会(BOI)はソフトウェア、デジタルプラットフォーム、ゲーム開発を含むデジタルコンテンツ事業を投資奨励対象としており、適格なプロジェクトに対して優遇措置を提供している。
優遇措置には最大8年から13年間にわたる法人所得税の免除、事業に必要な機械設備の輸入関税免除といった税制上の恩典が含まれる。さらに100%外資による事業所有の許可や外国人専門家のための就労ビザ・労働許可証の取得円滑化といった非税制上のメリットもある。
デジタル経済社会省傘下のデジタル経済振興機関(DEPA)は国内のゲーム開発エコシステムの構築に積極的に取り組んでおり、タイを地域のゲームハブとして確立することを目指している。
デジタルハーツの投資はタイの国家経済戦略と軌を一にしている。同社はBOIの優遇措置を享受する一方で、その進出はタイが目指すクリエイティブエコノミーハブおよびASEANのデジタルコンテンツ中心地としての地位確立に貢献する。
競争環境と戦略的優位性
タイおよび東南アジア市場では既に多くのローカライゼーションサービスプロバイダーが事業を展開している。バンコクにスタジオを構えるAndovarのようなグローバル企業や、LangLink Games、EQHO、SEAtongue、Digital-Trans Asiaといった地域に特化した専門企業が存在する。
このような競争環境において、デジタルハーツは以下の点で競争優位性を持つ。
第一に独自AI技術「ella」だ。AIと人間の協業によりスピードと品質を両立させる「ella」は他社が容易に模倣できない技術的優位性をもたらす。納期短縮とコスト効率の向上を実現し、クライアントに対して強力な価値提案が可能となる。
第二に統合型サービスモデルだ。ローカライゼーションを同社が市場をリードするデバッグサービスやマーケティング支援と組み合わせてワンストップソリューションとして提供できる能力は、開発プロセスの効率化を求めるゲームパブリッシャーにとって魅力的だ。
第三に企業規模と信頼性だ。日本の大手パブリッシャーとの長年にわたる取引実績を持つ東証プライム市場上場企業としての信頼性と規模は小規模な地域ベンダーにはない強みである。
今後の展望と企業への影響
バンコクでの成功は「ella」を中心としたグローバル展開モデルの有効性を証明し、他の高成長な非英語圏市場へ参入する際の青写真となる可能性がある。デジタルハーツにとって成熟した日本市場への依存度を下げ、新たな収益源を確保することは成長戦略上重要だ。
タイにとってこの進出は高度な専門知識を持つ人材の直接的な雇用創出をもたらす。タイ語を母国語とするリンギスト、プロジェクトマネージャー、QAテスター、ローカライゼーションエンジニアといった職種での雇用が見込まれる。
またタイの労働者は最先端のAI翻訳ツールやグローバル基準のLQAプロセスに触れることでその専門性を高めることができる。これはDEPAが掲げる人材育成目標とも合致しており、国全体のデジタル人材プールの質の向上に貢献する。
技術的に先進的な大手ローカライゼーション企業が進出することで、タイは海外のゲームパブリッシャーにとってゲームの発売や運営を行う上でより魅力的な国となる。これは現地のマーケティング、コミュニティ運営、eスポーツイベントへのさらなる投資を呼び込む可能性がある。
タイの国内ゲーム開発産業は成長を続けているがグローバル市場への展開には課題も多い。デジタルハーツのような世界レベルのローカライゼーションパートナーが国内に存在し、効率的かつ手頃な価格でサービスを提供できるようになれば、タイのスタジオが自社開発のゲームを海外市場へ輸出する際の障壁は下がる。
BKK IT Newsとしては、デジタルハーツのタイ進出はゲームローカライゼーション業界の未来を占う重要な試金石になると考える。人間の専門知識と人工知能の巧みな融合が成功の決定的な要因となるだろう。
参考記事リンク
- DIGITAL HEARTS HOLDINGS Announces the Establishment of the … – Digital Hearts
- History – DIGITAL HEARTS HOLDINGS
- Thailand’s Creative Economy: BOI Incentives and Emerging Opportunities – MPG
- Thailand: The Rising Star of Southeast Asia’s Gaming Industry, Localization & LQA Strategies
- ella – DIGITAL HEARTS Co., Ltd