タイがASEAN DEFA交渉を主導 ~2026年署名へ向けた戦略的役割と企業への影響~

タイがASEAN DEFA交渉を主導 ~2026年署名へ向けた戦略的役割と企業への影響~ タイ国際外交・貿易
タイ国際外交・貿易

タイが議長国を務めるASEANデジタル経済枠組み協定(DEFA)の交渉が2026年初頭の妥結を目指して加速している。2025年10月に開催された第14回交渉会合では、協定条文の70%で進展があったと報告された。この協定は、ASEAN域内のデジタル経済を2030年までに2兆米ドル規模へ拡大させる野心的な目標を掲げている。

DEFAの基本構造と目標

DEFAは2023年9月に交渉が開始された。協定は9つの主要な柱で構成されている。デジタル貿易、越境電子商取引、デジタル決済、デジタルID、データ越境移転、サイバーセキュリティ、人材移動、競争政策、新興技術の各分野で具体的なルールを策定する。

当初の目標は2025年末の妥結だった。しかし第14回会合を経て、妥結時期は2026年初頭に、署名は2026年第3四半期から第4四半期に再設定された。この調整は交渉の遅れではなく、10カ国の異なる発展段階と規制環境を調整する複雑さを反映している。

第14回会合では5つの優先条項が特定された。デジタル金融サービス、電子的送信の関税不賦課、デジタル製品の無差別待遇、海底ケーブルの管理、実施における柔軟性である。これらはデジタル経済の基盤を構築する項目として早期合意を目指す。

タイの交渉における役割

タイはDEFA交渉委員会の議長国として積極的な役割を果たしている。ピチャイ・ナリプタパン商業大臣やチャンタウィット・タンタシット商業副大臣が交渉を加速させるために精力的に活動している。タイは合意形成を促進するためにASEAN経済大臣の特別会合の開催を提案するなど、具体的な行動を起こしている。

議長国としての立場は、タイに複数の利益をもたらす。第一に、議題設定や議論の方向性に影響力を持つことで、協定内容を自国の国益に沿ったものに誘導できる。第二に、画期的な地域協定を自国の議長下で成功させることは外交的勝利となる。第三に、国際的評価の高まりは海外投資家にとってタイを魅力的な投資先として映し出す。

タイはDEFA議長国という役割を、自国を地域のデジタルハブにするという国家目標と連携させている。政府はデジタル資産取引への5年間の税制優遇措置を導入するなど、国内のデジタル競争力強化を並行して推進している。地域レベルでのリーダーシップは、タイがデジタル分野への投資を受け入れる準備ができているという強力なシグナルを世界中の投資家に発信する。

タイ経済への予測される影響

DEFAはタイ経済に大きな触媒となる可能性がある。ASEAN全体のデジタル経済が2兆米ドル規模に拡大する過程で、タイにも多額の投資が呼び込まれる見込みだ。協定は取引コストを削減し、タイ企業の競争力を向上させる。

中小零細企業(MSME)とスタートアップにとって、協定は重要な機会をもたらす。シームレスなオンライン取引、低コストの越境決済、統一されたEコマース規則により、これらの企業が国境を越えて事業を拡大しやすくなる。AIやフィンテックといった新興技術分野でも、新たなイノベーションの土壌が育まれる。

ただし、課題も存在する。巨大な地域市場へのアクセスが開かれる一方で、タイのスタートアップやMSMEはシンガポール、インドネシア、ベトナムなどの競合企業との直接的な競争に晒される。この新たな競争環境で生き残るには、迅速な事業のスケールアップ、国際標準のガバナンス体制導入、専門性の向上が不可欠となる。

競争圧力の結果、適応できない企業は淘汰され、適応できた企業がより大きく競争力のある地域的プレイヤーへと成長する可能性が高い。

労働市場と社会への影響

DEFAは労働市場にも深い影響を及ぼす。協定にはデジタルスキルの開発や情報格差の是正といった条項が含まれている。協定が高度人材の域内移動を促進する可能性があり、スキルアップやリスキリングに取り組まなければ、より競争力のある海外の人材に職を奪われるリスクが存在する。

デジタルスキルを持つ人材に対する需要は爆発的に高まり、賃金も押し上げられるだろう。一方で、デジタル化や自動化によって代替されやすい伝統的な非デジタル分野の職に従事する労働者の立場は不安定になる。デジタルスキルを持つ者と持たざる者との間の経済的格差は拡大する危険性がある。

一般市民にとっては、デジタルリテラシーの向上が不可欠となる。新たなデジタルサービスを安全に活用するためには、継続的な学習が求められる。協定は消費者保護やデータプライバシーの強化も目指しており、これが実現すればデジタルエコシステム全体への信頼性が高まる。

データガバナンスとPDPAの課題

DEFAの柱の中で特に重要かつ交渉が難航しているのが、個人データの保護を確保しつつデータの越境移転を円滑化するという項目だ。この論点はタイの個人情報保護法(PDPA)と直接的に交差する。

タイのPDPAはEUのGDPRをモデルとして策定された。データの越境移転、安全管理措置、データ主体の権利などに関して厳格な要件を定めている。DEFAが発効すれば、タイ企業は国内法であるPDPAの義務を遵守すると同時に、DEFAが定める新たな地域レベルのデータガバナンス基準にも対応する必要があり、コンプライアンス環境は一層複雑化する。

DEFAのデータ関連章の交渉は、タイのPDPAが国際的な相互運用性を持つかを試す重要な試金石となっている。DEFAがPDPAと同等の高いレベルのデータ保護基準をASEANの標準として採用すれば、タイが信頼されるデータハブとしての地位を固める追い風となる。タイ企業にとっても国内法と地域ルールが整合しているため、コンプライアンスが容易になる。

しかしDEFAがより低いレベルの共通基準を採用した場合、タイ企業がDEFAのルールに従ってデータを越境移転させても、より厳格なPDPAの基準を満たさず法的リスクを抱えるという事態が生じかねない。このような二重基準の状態は企業に大きな混乱と不確実性をもたらす。

企業が取るべき対応策

DEFAは企業にとって受動的に対応すべき外部環境の変化ではなく、能動的に活用すべき機会である。協定の署名・発効を待たず、今からASEANの潜在的な市場調査を開始し、事業展開の可能性を探ることが有効だ。

従業員に対し、デジタルマーケティング、越境ロジスティクス、データ分析、地域言語といった国際展開に必要なスキルの研修機会を積極的に提供することが重要となる。自社のPDPA遵守状況を徹底的に監査し、DEFAが求めるであろうより高度なデータガバナンス基準に対応できる体制を準備しておくことも必要だ。

単独での市場参入が困難な場合は、現地の文化や商習慣に精通した他のASEAN諸国の企業と戦略的な提携を結ぶことで、市場参入のリスクを低減できる。

タイのMSMEは価格競争に陥ることを避け、高品質なニッチ市場や、タイならではの文化を活かしたプレミアムなブランディングに注力することで、大量生産型の競合との差別化を図ることが一つの選択肢となる。

今後の展望

第14回会合を経て、DEFAは2026年初頭の妥結、2026年第3四半期から第4四半期の署名という新たな目標時期を設定した。次回の第15回会合は2025年11月24日から28日にかけてマレーシアのクアラルンプールで開催される予定で、集中的な議論が継続される。

協定の全面的な妥結には、残り30%程度の困難な論点について各国の妥協が必要となる。データローカライゼーション、ソースコードの開示要求、デジタル人材の移動といった問題は、国家安全保障や国内産業保護と関わるため合意形成が難航している。

これらの問題に対しては、加盟国の準備状況に応じて段階的な義務履行を認める「2層アプローチ」や「柔軟性」といったメカニズムを導入することで、時間をかけて解決を図る現実的なアプローチが採用される見込みだ。

ASEAN全体としては、6億8000万人の統合されたデジタル市場を創設することで、グローバルなテック企業に対してASEANが定めたルールに従うよう促す「規制の引力」を持つことを目指している。これはEUが一般データ保護規則(GDPR)で示した「ブリュッセル効果」に類似した戦略だ。

DEFAがASEANの未来にとって持つ意味は大きい。協定がなければASEAN域内の企業は各国で異なるデジタル規制への対応のために、年間推定150億から200億米ドルものコンプライアンスコストを負担し続けることになる。DEFAはこれらの障壁を撤廃し、域内の規制の安定性を世界に示すことで海外からの直接投資を呼び込む決定的な役割を果たす。

BKK IT Newsとしては、DEFAは単なる経済協定ではなく、米中間の技術覇権競争が激化する中で、ASEANが地域としてのデジタル主権を確立し、経済安全保障を確保するための戦略的な生存戦略であると考えている。タイ企業にとっては、この変化の波に乗り適切に対応することが、デジタル時代における競争力確保の鍵となる。

参考記事リンク