タイは世界水準の5Gインフラを持つ。インターネット普及率は91.2%に達し、モバイル通信速度も堅調だ。しかし、この優れた技術基盤が経済全体の生産性向上につながっていない。特に経済の中核を担う中小企業(SME)の多くは、基本的なデジタルツールの導入段階に留まっている。この産業界におけるデジタル格差が、タイ経済の未来に影を落としている。
5Gインフラは整備されたが
タイの通信市場は大きな転換点を迎えた。2023年にTrueとdtacの合併が完了し、市場はAISと統合後のTrueによる複占体制になった。この統合により「One Network」という大規模なネットワーク近代化プロジェクトが実現し、旧dtac利用者の5G通信速度は平均4.39倍向上した。
2025年初頭の時点で、タイのインターネット普及率は人口の91.2%、携帯電話契約数は人口の139%に達している。モバイル通信速度の中央値は61.21 Mbpsと良好で、すべてのモバイル接続が3G以上の「ブロードバンド」と見なされている。
2025年6月の周波数オークションでは、True CorporationとAISの2社のみが参加し、総額13億ドルで利用可能な周波数をすべて分け合った。他の事業者が入札しなかったことは、市場参入障壁の高さを物語っている。
この状況は一つのパラドックスを生んでいる。市場統合が大規模投資を可能にし、技術的に優れたネットワークを実現した。しかし、同じ市場統合が競争を減少させ、新規参入を困難にしている。世界クラスの5Gネットワークを構築した市場構造そのものが、今やそのネットワークの生産的な利用を妨げる障害になりかねない。
中小企業の厳しい現実
一部の先進的企業は5Gの可能性を実証している。チョンブリー県の美的集団(Midea)のエアコン工場は、東南アジア初の「5G完全コネクテッドファクトリー」として、プライベート5Gネットワークを活用している。リアルタイムのデータ収集、5G自動搬送車、AIを活用した品質検査により、操業効率は15~20%向上し、コストは約30%削減された。
しかし、タイ経済の大部分を占める中小企業の状況は大きく異なる。カシコンリサーチの報告によれば、タイの中小企業の70%以上が、オンライン注文や基本的な電子文書の利用といった「レベル2.0」の技術導入段階に留まっている。大企業との競争において不利な立場に置かれている。
これは意欲の問題ではなく、能力の問題だ。バンコク銀行の報告書は、中小企業の成長を阻害する体系的な制約を特定している。資金調達へのアクセスの限界、戦略的能力の弱さ、研究開発投資の低さ、安価な輸入品からの圧力、複雑な規制、そして未発達な支援エコシステムである。
特に技術導入に関しては、技術的スキルの欠如、資金調達の制約、そしてリスク回避的な姿勢が主要な障壁となっている。SCB EICの報告書も、製造業における5G導入の三大障害として、高度なデジタルスキルを持つ人材の不足と、高コストで投資回収期間の長い5G投資への資金調達の難しさを挙げている。
タイSME連盟の会長は、デジタル技術を導入し適応できない中小企業は、やがて消えゆく「流れ星」になるリスクがあると警鐘を鳴らしている。
AIが格差をさらに広げる
次なる技術の波である人工知能(AI)は、この産業の断絶をさらに深刻化させる恐れがある。TrueのCEO、シグヴェ・ブレッケ氏は明確に警告している。「AIの時代においてスピードは生存を意味する」ため、タイは強力な5Gインフラを消費者向けだけでなく、産業用AIのために活用しなければならない。
タイの労働市場はすでにこの変化を反映し始めており、企業の65%が採用面接時にAIに関する能力を考慮するようになっている。しかし、このスキル需要は、中小企業が抱えるスキル不足という厳しい現実に直面している。
この状況は、タイ経済が「二速度デジタル経済」へと構造的に分断されつつあることを示している。一方には、Midea工場のようにAIとリアルタイムデータを活用し、指数関数的な成長曲線に乗る先進的な企業群が存在する。もう一方には、レベル2.0の技術に留まり、停滞的な軌道上にある大多数の中小企業が存在する。
この二者の生産性の差は、単なる「格差」ではなく、根本的な「乖離」である。この乖離が放置されれば、国の競争力を阻害し、中小企業セクターの賃金上昇を抑制し、結果として「中所得国の罠」からの脱却を一層困難にするだろう。
政府の対応と限界
「タイランド4.0」は、タイが「中所得国の罠」から脱却するための国家的な戦略である。重工業を基盤とした経済から、「価値ベース」で「イノベーション主導」の経済へと転換することを目指している。その中核的な目標の一つが、主要セクターのデジタルトランスフォーメーションと、従来の中小企業を「スマートエンタープライズ」へと進化させることだ。
政府は中小企業を支援するために数多くのプログラムを設立してきた。工業省は産業変革センター(ITC)を設置し、自動化やロボット導入に関する助言を提供している。デジタル経済振興機関(depa)は、中小企業がデジタルソリューションを導入するのを支援するため、「デジタルトランスフォーメーション基金」や「ミニ変革バウチャー」といった制度を設けている。
しかし、これらの戦略や支援メカニズムは、市場の慣性や企業が直面する構造的障壁を克服するには不十分だった。公共ネットワーク上での産業向け5Gの導入は、「限定的なユースケース」、複雑さ、そしてコストを理由に遅々として進まなかった。
この状況を打開するため、国家放送通信委員会(NBTC)は2025年9月、重大な政策転換を発表した。4.8 GHz帯の100 MHz幅の周波数を、工場や工業団地がプライベート5Gネットワークを構築するために「無償で」割り当てるという決定である。
この措置は、参入障壁を引き下げることでプライベート5Gの導入を加速させることを目的としていた。これにより、企業は通信事業者の公共ネットワークに依存することなく、低遅延や高セキュリティといった自社の特定の運用ニーズに合わせたネットワークを構築することが可能になる。
NBTCによる周波数の無償提供という決定は、強力であると同時に「事後対応的」な措置である。これは、市場主導のアプローチが機能していなかったことを暗黙のうちに認めるものだ。この事実は、高レベルの政策的野心と、企業が直面する現場の経済的現実との間の決定的な断絶を明らかにしている。
スキル不足という根本原因
デジタルスキルを持つ労働力の不足は、タイ経済に関するあらゆる分析で繰り返し指摘されるテーマである。経済協力開発機構(OECD)のスキル戦略報告書は、デジタル化やAIといったメガトレンドへの適応を、タイにとっての重要な課題として特定している。
この問題は、特に中小企業において深刻である。熟練労働力の不足は、彼らのイノベーション能力と競争力を直接的に制限する主要な制約となっている。建設業のようなより大きなセクターでさえ、若者がディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)を得るために必要なデジタルスキルやグリーンスキルが不足していると認識されている。
現在のスキル不足は、新たな問題ではなく、長年にわたる社会的なデジタル格差がもたらした帰結である。2020年のタイ開発研究所(TDRI)の報告書は、コンピューターを所有しているタイの世帯がわずか21%であり、世界平均(49%)を大きく下回っていることを明らかにしている。
この格差は所得と密接に連動しており、年収20万バーツ未満の世帯でインターネットに接続されたコンピューターを所有しているのは、わずか3%に過ぎない。家庭でのインターネットアクセス率は比較的高くても、デバイスの欠如は、深いレベルでのデジタルへの関与や学習を妨げる重大な障壁となる。
この脆弱性は、COVID-19パンデミックによって露呈した。大学がオンライン学習に移行した際、コンピューターを持たない学生は取り残されてしまったのである。このような基盤となるツールへのアクセスが歴史的に欠如していたことは、「世代的負債」を生み出した。その結果、競合国の同世代に比べてデジタルネイティブとは言えない労働力が形成されてしまった。
今後の可能性
タイは世界クラスの5Gネットワークという「技術資産」、タイランド4.0という明確な「国家ビジョン」、そして潜在的にダイナミックな中小企業セクターという「経済基盤」を保有している。しかし、これらの資産は互いに連携していない。
この「資産のミスマッチ」がこのまま続けば、タイは一部の「スーパースター企業」が突出する一方で、大多数の中小企業が停滞するという恒久的な階層社会を生み出すリスクを負う。これは不平等を悪化させ、広範な賃金上昇を抑制し、経済の大部分が低付加価値活動に留まるため、最終的に「中所得国の罠」からの脱却に失敗する可能性がある。
一方で、根本原因に対処するための協調的な努力は、計り知れないポテンシャルを解き放つ可能性がある。産業格差を埋めることで、タイはインフラ投資をテコに中小企業の生産性を向上させ、高付加価値の雇用を創出し、輸出競争力を強化し、「タイランド4.0」の目標を達成することができる。
BKK IT Newsとしては、いくつかの選択肢が考えられる。政策面では、インフラ整備の段階を超え、競争力のあるサービス市場を育成することが一つの方向性となる。中小企業のニーズに応えることができる、専門性の高い企業向けサービスプロバイダーを創出するための環境整備が考えられる。
また、中小企業支援策の焦点を、単なる技術補助金から、集中的かつ実践的な「吸収能力構築」へと転換することも選択肢の一つだ。これには、現状分析コンサルティングへの資金提供、技術導入のためのプロジェクトマネジメント支援、そして経営者だけでなく従業員向けの長期的なデジタルスキル研修などが含まれる。
教育面では、産業界と深く、かつ義務的なパートナーシップを築き、市場が実際に求める実践的なデジタルスキル(AI、データ分析、サイバーセキュリティ、IoT統合)に焦点を当てたカリキュラムを共同開発する方向性がある。「世代的負債」に対処するため、すべての子供が小学校からコンピューティングデバイスへのアクセスと統合されたデジタルスキル研修を受けられるようにすることも考えられる。
デジタル格差を埋めることは、もはや人々をオンラインに接続することだけを意味しない。経済全体がその潜在能力を最大限に発揮してオンラインで活動できるようにすることである。タイが直面する岐路は困難であるが、正しい戦略的選択を行えば、より豊かで、より公平で、より革新的な未来を築くことが可能である。
参考記事リンク
- True Unifies Network Power with ‘One Network’ Integration – Bangkok Post
- SMEs in the Crossfire: Reinventing Thailand’s Value Edge
- The First 5G Fully-Connected Factory Built in Southeast Asia – Huawei
- Thailand’s NBTC to allocate free spectrum for private 5G networks in …
- OECD Skills Strategy Thailand | OECD