タイ政府が消費刺激策「コン・ラ・クルン・プラス」を2025年10月7日に承認した。総額440億バーツの予算で最大2,000万人の国民が対象となる。注目すべきは、納税者に手厚い優遇措置を導入した点だ。
過去の「コン・ラ・クルン」計画の実績
タイでは2020年から2022年にかけて「コン・ラ・クルン」計画が全5フェーズ実施された。COVID-19パンデミックによる経済危機への対応として開始された施策だ。2年間で延べ3,100万人が参加し、総額約2,084億~2,345億バーツが投じられた。
この政策の最大の成果は中小零細事業者への支援だった。チュラロンコン大学の研究によると、参加した小規模店舗は非参加店舗と比較して売上が平均174%増加した。特に新規顧客の獲得に効果があった。
一方で課題も明らかになった。政府が補助金として投じた1バーツあたり、新たに生み出された消費はわずか0.4バーツに留まった。多くの消費者は支出先を移動させただけで、全体の消費支出額は大きく増加しなかった。
タイ政府は過去の「コン・ラ・クルン」計画の経験を踏まえて、今回の「プラス」版では制度設計を改良した。
「プラス」の主要な変更点
「コン・ラ・クルン・プラス」は過去の制度から大きく3点が変更された。
第一に、一律給付から納税者優遇の2段階給付へ転換した。一般国民には政府が購入額の50%を補助し、上限は2,000バーツとなる。納税者には政府が購入額の60%を補助し、上限は2,400バーツに引き上げられた。
第二に、1日あたりの補助上限額を150バーツから200バーツに引き上げた。一人当たりの支出額を増やすことで消費刺激効果の向上を狙っている。
第三に、対象年齢を18歳から16歳に引き下げた。デジタルネイティブである若年層を経済活動に取り込む狙いがある。
実施スケジュールと登録方法
本制度の実施スケジュールは以下の通りだ。
店舗登録は2025年10月15日~12月19日に行われる。国民登録は2025年10月20日~26日の期間で、毎日06:00~22:00に受け付ける。先着2,000万人の定員に達し次第、期間内でも受付を終了する。
利用期間は2025年10月29日~12月31日となる。毎日06:00~23:00に利用可能だ。フードデリバリーの利用期間は2025年11月7日~12月31日で、毎日06:00~21:00となる。
登録から利用までの全プロセスは「Pao Tang(เป๋าตัง)」アプリで行われる。過去のフェーズ5に参加した経験のある国民はアプリ上で権利を再確認するだけでよい。新規参加者は同アプリ経由で登録手続きを行う。
重要な点として、権利獲得後の初回利用期限が設けられている。参加者は2025年11月11日23:00までに最初の支払いを行わなければ権利を失う。これは予算の死蔵を防ぐための措置だ。
対象品目と利用制限
対象品目は食料品、飲料、一般商品に加え、マッサージ、スパ、理美容といったサービス業も含まれる。タクシーや路線バスなどの一部公共交通機関も補助の対象だ。
一方で宝くじ、アルコール飲料、タバコ、商品券やプリペイドカードなどの金券類は対象外となる。
税務上の取り扱いについて、財務大臣は重要な点を明言した。本制度によって得た補助金は個人の所得として課税されない。また、参加店舗の取引データが遡及的な税務調査に直接利用されることはない。これは過去に事業者が税務調査を懸念して参加をためらった可能性への配慮だ。
タイ経済の現状と政策の背景
2025年のタイ経済は厳しい状況にある。第1四半期の成長率3.2%から第2四半期には2.8%へと減速した。専門家の間では、特段の対策を講じなければ第4四半期の経済成長は0.3%程度まで急減速するとの見方が広がっていた。
消費者物価指数(CPI)は2025年9月時点で前年同月比-0.72%と、6ヶ月連続でマイナス圏に沈んでいた。タイ中央銀行が掲げる1~3%のインフレターゲットを大きく下回る水準だ。
政府は本施策により、2025年のGDP成長率を0.3~0.4%ポイント押し上げると試算している。第4四半期のGDP成長率を少なくとも1%以上に引き上げることを目標としている。
納税者優遇の戦略的意図
納税者を明確に優遇する制度設計には、短期的な消費刺激を超えた戦略的意図がある。
タイは就労人口約1,100万人のうち納税者が400万人に留まるという狭い納税者基盤を抱えている。広範なインフォーマル経済が構造的課題だ。
国民に人気の高いプログラムを利用し、「納税者であること」に直接的な金銭的メリットを付与することで、インフォーマルセクターの国民を公式な税制システムへ自主的に参加させる狙いがある。
これは従来の「義務だから払う」という発想から、「利益があるから参加する」という市場原理に近いインセンティブ設計への転換だ。短期的な消費刺激という第一の目的の裏で、税収基盤の拡大という長期的・構造的な国家目標を同時に追求している。
デジタル化の加速
本制度は2,000万人規模の国民と数百万の小規模事業者が「Pao Tang」アプリを介した取引を日常的に行うことになる。デジタル決済は一部の先進的な層のものではなく、社会全体のインフラとして定着する。
参加店舗には会計スキルやEコマース活用のためのトレーニング機会が提供される。単なる短期的な売上補填から一歩進んで、事業者の持続的な競争力強化を目指す長期的な視点が加えられた。
プログラムを通じて収集される膨大な匿名取引データは、消費動向や地域経済の実態をリアルタイムで把握するための貴重な資産となる。将来的にはより精緻なターゲティングに基づいた社会保障や経済政策の立案が可能になるだろう。
残された課題
デジタル化の加速は光と影の両面を持つ。スマートフォンを保有していない、または操作に不慣れな高齢者、最貧困層、通信インフラが脆弱な遠隔地の住民が制度の恩恵から取り残されるリスクは依然として深刻な課題だ。
過去のフェーズでは、登録のために銀行に人々が殺到し、混乱が生じたことも報告されている。政府は「インターネット・コン・ラ・クルン」と称する、高齢者や障害者のインターネット利用を補助する別の施策を議論している。
今後の展望
本施策はあくまで短期的な需要刺激策だ。タイ経済が抱える高い家計債務、産業競争力の低下、人口高齢化といった構造的な問題を解決するものではない。
政府関係者からは早くも「コン・ラ・クルン・プラス フェーズ2」の可能性が示唆されている。経済が短期的な刺激策に依存する体質になるリスクも懸念される。
BKK IT Newsとしては、短期的な景気下支えと並行して、人材育成、規制緩和による投資促進、産業の高度化といった地道な構造改革の重要性を指摘したい。持続可能な成長への道は、タイ経済の潜在成長率そのものを引き上げることにある。
企業にとっては、デジタル決済インフラの整備と、データに基づいた顧客理解の深化が選択肢の一つとなるだろう。本施策で得られたデジタル化のモメンタムを、単発の景気対策で終わらせず、持続可能な成長基盤の強化へと繋げていく視点が求められる。
参考記事リンク
- Cabinet Approves “Khon La Khrueng Plus” Co-Payment Program to Boost Domestic Spending – Thai Enquirer Market Watch
- Cabinet Approves the Half-Half Plus Co-Payment Program – Thailand Public Relations Department
- Thai Cabinet Greenlights ‘Khon La Krueng Plus’ Stimulus – Nation Thailand
- Thailand Unveils Bold Economic Stimulus Plan – Travel and Tour World
- Govt plans Q4 GDP boost – Bangkok Post