米国の懲罰的な関税政策により、中国の大手家電メーカーがタイへ生産拠点を大規模に移転している。ハイアール、ハイセンス、美的集団など主要企業が数十億バーツ規模の投資を実施し、タイを新たなグローバル輸出ハブとして確立する動きが加速している。
米中貿易戦争が引き起こした構造変化
2025年、第二次トランプ政権は国際緊急経済権限法(IEEPA)を発動し、中国製品に最終的に145%という商業的に成立し得ない関税率を課した。この懲罰的な税率により、中国国内で生産された製品を米国市場で販売することが事実上不可能になった。
2018年から始まった貿易摩擦では、中国製洗濯機に最大50%、電子機器に25%の追加関税が課されていた。この段階では「チャイナ・プラスワン」戦略として、中国国内の生産体制を維持しつつ、東南アジアにも生産拠点を分散させる動きが主流だった。
しかし2025年の政策転換は、単なる貿易交渉の駆け引きではなく、米国のサプライチェーンを中国から意図的に切り離すための構造的な障壁として機能した。中国企業にとって、生産拠点の移転はもはや選択の問題ではなく、事業継続のための唯一の道となった。
タイが選ばれた戦略的要因
中国企業がタイを主要な移転先として選んだ背景には、複数の戦略的要因がある。
第一に、タイはASEAN(東南アジア諸国連合)の中心に位置し、約7億人の巨大市場へのアクセス拠点となる地理的優位性を持つ。
第二に、タイ投資委員会(BOI)が主導する積極的な投資誘致策が、海外からの直接投資を強力に後押ししている。BOIは、法人所得税の最大8年間(場合によっては13年間)の免除、機械・原材料の輸入関税免除、外国人投資家による100%の株式保有許可、そして土地所有権の付与といった、非常に魅力的なインセンティブ・パッケージを提供している。
第三に、タイ東部臨海地域で進められている国家的な巨大インフラ開発プロジェクト「東部経済回廊(EEC)」の存在が大きい。レムチャバン港やマプタプット港といった深海港、複数の国際空港、そしてこれらを結ぶ高速道路網や鉄道網が整備されており、世界水準の物流インフラが整っている。
タイの関税交渉が勝負の分かれ目
タイが中国企業の生産拠点として選ばれる上で、決定的に重要だったのが、米国との二国間関税交渉の行方だった。
当初、米国が導入した「相互関税」政策の下で、タイはカンボジアなどと同様に36%という極めて高い関税率を課される可能性に直面していた。もしこの税率が適用されていれば、タイの輸出産業は壊滅的な打撃を受け、ベトナム(20%)やインドネシア(19%)といった近隣の競合国に対して完全に競争力を失っていただろう。
この危機に対し、タイ政府はピチャイ・チュンハワチラ副首相兼財務大臣が率いる交渉団「チーム・タイランド」を結成し、国家の総力を挙げて交渉に臨んだ。タイは最終的に19%という、インドネシアと同水準で、ベトナムよりも有利な関税率を勝ち取ることに成功した。
しかし、この成果は無償で得られたものではない。タイは、その見返りとして重大な譲歩を余儀なくされた。米国製品1万品目以上に対する輸入関税を撤廃し、タイ市場へのアクセスを大幅に拡大させる。トウモロコシや大豆といった米国の主要農産物の輸入割当を拡大する。中国製品がタイを経由して米国に迂回輸出される「偽装原産地」を防ぐため、原産地証明の審査・執行を厳格化することに合意した。
主要企業の大規模投資
米国の高関税を回避するため、タイへの生産拠点移転を主導しているのは、中国を代表する複数の大手家電メーカーである。
ハイアール(Haier)は100億バーツ(約2億7,000万ドル)を投じ、チョンブリー県に東南アジア最大級のエアコン工場を新設した。この工場は年間300万台の生産能力を持ち、将来的には600万台への倍増が計画されている。創出される雇用は3,000人以上にのぼり、生産される製品の大半は米国市場をはじめとする海外への輸出に向けられる。
ハイセンス(Hisense)も47億バーツ(約1億2,700万ドル)を投資し、チョンブリー県に隣接する形で製造パークを建設中である。この拠点は冷蔵庫と洗濯機の生産に特化し、2026年までに年間260万台の生産体制を整える計画だ。
美的集団(Midea)は22億バーツ以上を投じてラヨーン県に最新鋭のエアコン工場を建設した。この工場の特筆すべき点は、その生産の90%以上が米国向けであること、そして世界経済フォーラムによって「グローバル・ライトハウス・ネットワーク」の一員として認定されていることである。これは、5G、AI、IoTといった最先端技術と持続可能なグリーンテクノロジーを駆使した、極めて高度な「未来の工場」であることを意味する。
これらの投資のほとんどが、タイ東部のチョンブリー県とラヨーン県に集中している。この地域は、タイ政府が国家戦略として推進する「東部経済回廊(EEC)」の中核をなすエリアである。
タイ経済への影響と課題
中国家電メーカーからの大規模な投資流入は、タイ経済にとって多大な機会をもたらしている。2023年までに、中国はタイにとって最大のFDI供給国となり、タイ経済の成長を牽引する重要なエンジンとなっている。
ハイアールの新工場だけでも3,000人以上の新規雇用が見込まれており、これは地域経済の活性化と住民の所得向上に直接的に貢献する。美的集団がラヨーン県に建設した「グローバル・ライトハウス」工場では、5G、AI、IoTといった最先端のデジタル技術が駆使され、エネルギー効率と持続可能性を追求した生産プロセスが導入されている。
しかし、この投資ブームは「諸刃の剣」であり、タイの経済と社会に深刻な課題とリスクをもたらしている。
第一の課題は、国内企業への激烈な競争圧力である。ハイアールや美的集団といった中国の巨大メーカーは、その圧倒的な生産規模とコスト競争力を武器に、タイ国内市場で価格競争を激化させている。タイのエアコンメーカーであるサイジョー・デンキの経営者は、中国製品の流入によって国内メーカーが市場を奪われ、工場の閉鎖や解雇につながる可能性があると警鐘を鳴らしている。
第二に、米国の関税強化は、中国からの直接投資だけでなく、中国国内で生産され米国市場から締め出された製品の「迂回先」として、タイ市場への流入を加速させている。タイ産業連盟(FTI)は、中国製品の流入によって国内の少なくとも10の産業が売上・生産の減少という打撃を受けていると指摘している。この結果、タイの対中貿易赤字は近年急拡大し、2023年には400億ドル以上に達した。
第三に、投資が集中するEEC地域において、深刻な環境・社会問題が顕在化している。地域住民や環境団体からは、工業廃水や有害廃棄物の不法投棄、大気汚染、そして農地や森林が工業用地へと転換されることによる生態系への影響などが報告されている。
RVC要件という最大のハードル
タイの新たな産業戦略全体のアキレス腱となりかねない、最大の課題が「地域産品比率(Regional Value Content, RVC)」の問題である。
米国は、タイからの輸入品が19%の優遇関税率の適用を受けるための条件として、製品価値の50%から60%がタイ国内または特定の地域内で付加されたものでなければならないという、極めて高いRVC基準を要求している。この基準を満たせない製品には、40%という懲罰的な関税が課されることになる。
この要求は、タイの多くの産業にとって存亡に関わる脅威である。特に、今回の投資ブームの中核である電気・電子産業の現在のRVCは、わずか22.5%に過ぎない。その他、化粧品(15%)、鉄鋼(20%)、医薬品(35%)など、多くの主要輸出産業が要求される基準をはるかに下回っているのが現状である。
この重大な問題に関する米タイ間の交渉は、依然として膠着状態にある。タイ側は、一般的な自由貿易協定(FTA)で標準的な40%のRVC基準を求めているが、米国は中国からの迂回輸出を徹底的に防ぐため、50-60%という高い基準に固執している。
BOIは、電気自動車(EV)や電子機器といった戦略的分野において、タイ産業連盟が認証する「メイド・イン・タイランド(MiT)」基準を満たす国内調達率(例えば、家電製品の場合は原材料価値の40%)を達成した企業に対し、通常のBOI恩典に加えて、さらに2年間の法人所得税50%減免という追加インセンティブを付与している。
また、米国が最も懸念する「迂回輸出」を防ぐため、BOIは製造プロセスの審査を厳格化している。今後は、原材料が実質的に変形・加工された(例えば、関税分類番号が4桁レベルで変更されるなど)と認められる「大幅な変更」を伴う生産活動のみを優遇措置の対象とする方針である。
ベトナムとの競争
中国からの生産拠点移転の波は、タイだけでなくASEAN全体に及んでおり、その中でも特に熾烈なFDI誘致競争を繰り広げているのがベトナムである。
ベトナムの強みは、主にコスト競争力と地理的条件にある。ベトナムの平均時給は約3ドルであるのに対し、中国は約6.5ドルであり、タイは両者の中間に位置する。この低コストは、特に労働集約型の組立工程において大きな魅力となる。
また、ベトナムは中国と1,000km以上にわたる陸路国境を接している点は、サプライチェーンの観点から決定的に重要である。部品や原材料を中国南部の製造拠点から陸路で迅速かつ低コストで調達できるため、「チャイナ・プラスワン」戦略にとって理想的な立地と言える。
一方、タイの強みは、より成熟した産業基盤と質の高いインフラにある。EECに代表されるインフラは、港湾、道路、通信網のいずれにおいても、ベトナムより整備が進んでいると評価されている。また、タイは「アジアのデトロイト」と称されるように、自動車産業を中心に長年にわたって高度な製造業の集積地となってきた歴史があり、裾野の広いサプライヤー網と熟練した技術労働者層が厚い。
タイとベトナムの競争は、単に「どちらが優れているか」という単純なものではなく、「どのような目的の投資にとって、どちらがより適しているか」という、機能分化の側面が強い。
企業への影響と今後の展望
中国家電メーカーのタイ進出は、既存の日系企業を含む外資系企業にとって、競争環境の変化を意味する。市場での価格競争が激化し、従来のビジネスモデルの見直しが必要になる可能性がある。
一方で、中国企業の投資により、部品サプライヤーなど関連産業での新たなビジネス機会も生まれている。特に、RVC要件を満たすために国内調達を増やす必要があることから、タイ国内のサプライチェーン強化が期待される。
タイが地域製造ハブとしての地位を維持し、さらに発展させていくためには、国内改革の加速が不可欠である。タイ産業連盟(FTI)などの経済団体からは、特に人材育成とイノベーション能力の強化が急務であるとの指摘がなされている。AI、半導体、医療技術といった未来志向の産業分野で世界中から優秀な人材を惹きつけ、国内の研究開発(R&D)体制を抜本的に強化することが求められる。
中国家電メーカーの投資は、短期的にはタイ経済に大きな恩恵をもたらすが、長期的な持続可能性は、RVC問題の解決と国内産業基盤の強化にかかっている。BKK IT Newsとしては、タイが単なる中国企業の「通過点」ではなく、真の高付加価値製造ハブとして発展していく可能性に注目していきたい。
参考記事リンク
- Haier And Hisense Set Up Shop In Thailand To Dodge US Tariffs – Finimize
- Thai factory demand brisk as firms flee China – Bangkok Post
- Thailand remains a top destination for Chinese businesses despite concerns – KrASIA
- China’s appliance giants intensify battle for Thai market – Nation Thailand
- BOI unveils new incentives to counter US tariffs and protect Thailand’s industry – Nation Thailand