2025年9月、AppleがEUデジタル市場法(DMA)の撤廃を要求し、欧州委員会はこれを断固拒否した。双方の主張は真っ向から対立し、今後のデジタル市場の競争環境を左右する重要な局面を迎えている。
Appleの主張と欧州委員会の対応
2025年9月24日から25日にかけて、AppleはDMAの見直しプロセスの一環として、25ページにわたる正式な文書を提出した。同社は法律を撤廃し「より目的に適合した法的手段に置き換える」ことを要求している。この要求は、欧州委員会が2025年7月3日に開始し9月24日に締め切ったDMAの初回見直しのためのパブリックコンサルテーションのタイミングと一致している。
欧州委員会のデジタル問題担当報道官トーマス・レニエ氏は、この要求を明確に拒否し、同法を放棄する「意図は全くない」と述べた。委員会の公式な立場は、「DMAの遵守は選択肢ではなく、義務である」というものだ。この対立は、単なる企業と規制当局の間の紛争を超え、デジタル経済の未来を形作る対立するビジョンの衝突を示している。
AppleがDMAに反対する理由
Appleは、DMAがユーザー体験を損ない、新たなリスクを生み出し、イノベーションを阻害していると主張している。具体的には、以下の三つの柱に基づいている。
まず機能の遅延だ。DMAが課す相互運用性の要件により、EUにおける複数の新機能の展開が遅れている。iPhoneミラーリング、AirPodsによるライブ翻訳、マップ機能などが対象となっており、Appleは「ユーザーのデータを危険にさらすことなく、これらの機能をApple以外のデバイスに提供する安全な方法をまだ見つけていない」と説明している。
次にセキュリティリスクの増大だ。サイドローディングと代替マーケットプレイスを義務付けることは、ユーザーを「偽の銀行アプリを通じて広がる詐欺、ゲームに偽装したマルウェア、そして過剰請求を行うサードパーティ決済システム」に晒すことになるとAppleは警告している。特にこれまでApp Storeでは禁止されていたポルノグラフィやギャンブル関連のアプリが利用可能になることで、子供たちにリスクが生じるとも指摘している。
最後に不公正な競争だ。EUで最大のスマートフォン供給者であるSamsungのような競合他社がゲートキーパーとして指定されていない一方で、Appleだけが標的にされていると批判している。
欧州委員会の反論
欧州委員会は、Appleのセキュリティに関する主張を一蹴している。報道官のトーマス・レニエ氏は「DMAには、企業がプライバシー基準やセキュリティ基準を下げることを要求するものは何もない」と述べている。委員会の立場は、DMAがビジネスユーザーにとって「より公正なビジネス環境」を創出し、消費者に「より多くの、より良いサービスを選択する機会」、「サービスへの直接アクセス、そしてより公正な価格」を提供するために不可欠であるというものだ。
この法律の目的は、ゲートキーパーが「不公正な慣行」を用いて「不当な優位性」を得ることを防ぎ、それによって競合他社やイノベーターにとっての競争条件を平準化することにある。この規制は、既存の競争法を置き換えるものではなく、それを補完する事前規制ツールとして設計されている。
ゲートキーパーの指定基準については、市場シェアのみに基づいているわけではない。「強力な仲介的地位」や「確立され、永続的な地位」といった要因が含まれている。委員会は、AppleがiOSエコシステムとApp Storeを支配していることが、よりオープンなAndroid OSを使用するSamsungにはない、特有のゲートキーパーとしての力を与えていると主張している。
DMA制定までの経緯
EUとAppleの対立的な関係は、約20年近くにわたって続いてきた長い歴史を持つ。DMA制定以前から、EUはAppleの商慣行に対して独占禁止法の観点から厳しい視線を向けてきた。
特に重要な前触れとなったのが、2019年に音楽ストリーミングサービスSpotifyが申し立てた苦情に端を発する調査だった。この調査は、Appleが開発者に対し、App Store外の安価な購読オプションについてユーザーに通知することを禁じる「アンチステアリング」規則に焦点を当てた。この問題は、最終的に2024年3月、18億ユーロという巨額の罰金につながった。
また、2020年に始まったEpic Gamesとの法廷闘争も、AppleのApp Storeポリシーに対する反競争的な議論を国際的に浮き彫りにし、DMA策定の背景となる圧力を形成した。
DMAの立法プロセスは以下の通りである。2020年12月に欧州委員会がDMA法案を提出、2022年7月に正式採択、2022年11月に発効、2023年5月にほとんどの規定が適用開始、2023年9月に最初の6つのゲートキーパー(Alphabet、Amazon、Apple、ByteDance、Meta、Microsoft)を指定、そして2024年3月に指定されたゲートキーパーがDMAの全規定を遵守する期限を迎えた。
DMA施行後の展開と罰金
2024年3月7日の遵守期限を受け、AppleはEU域内においてiOS、App Store、Safariに変更を加え、代替アプリストアや決済システムの許可などを実施した。
しかし、これらの遵守措置は、SpotifyやEpic Gamesといった競合他社から即座に「DMAを骨抜きにするもの」と批判され、欧州委員会による迅速な調査へとつながった。Appleの対応は、法の文言には従いつつも、その精神を損なう「悪意あるコンプライアンス」の一例と見なされた。例えば、代替決済システムを許可する一方で、新たに「コアテクノロジー料」を導入し、多くの開発者にとって代替手段が経済的に成り立たないような手数料体系を構築したとされている。
遵守期限からわずか20日足らずで、欧州委員会はApple、Alphabet、Metaに対する不遵守調査を開始した。Appleに対する調査は、アンチステアリング規則、ブラウザ選択画面の設計、そして代替アプリストアに関する新たな手数料体系に焦点が当てられた。
2025年4月、EUはアンチステアリング規則違反を理由に、DMAに基づきAppleに5億ユーロの罰金を科した。Appleはこの決定に対して上訴している。これは、2024年3月に別の競争法規則に基づき科された18億ユーロの罰金とは別のものだ。
技術的な論争の核心
Appleの主張の中心には、DMAが同社の製品の根幹をなすセキュリティアーキテクチャを破壊するという懸念がある。同社は「壁に囲まれた庭」が本質的にセキュリティのための設計であり、相互運用性やサイドローディングを義務付けることは、この設計を破壊し、避けられない脆弱性を生み出すと主張している。Appleは、これらのリスクを軽減するために提案した安全策が欧州委員会に拒否されたとも述べている。
一方、EUのスタンスは、DMAがセキュリティレベルの引き下げを要求するものではなく、競争促進法であり、革新的かつ安全な方法で遵守する責任はゲートキーパーにあるというものだ。
専門家の中には、リスクは実在するものの、乗り越えられないものではなく、Appleが戦術としてその困難さを誇張していると指摘する声もある。この論争の核心は、許容可能なリスクレベルを最終的に誰が決定すべきかという点にある。プラットフォームの所有者であるAppleか、それとも民主的な説明責任を負う政府か、という問いだ。
App Storeビジネスモデルへの脅威
セキュリティに関する議論の裏には、DMAがAppleの収益構造に与える甚大な影響がある。
DMAが要求する代替アプリストアや代替決済システムは、App Storeの収益化の核心である15-30%の手数料を直接的に脅かすものだ。この手数料は、Appleのサービス部門にとって巨大な収益源となっている。App Storeエコシステム全体では、2024年に約1.3兆ドルの取引および売上を創出したと推定されている。
特に、開発者がユーザーを外部のウェブサイトでの支払いに誘導することを許可するアンチステアリング規定は、この収益に対する直接的な脅威だ。Spotifyによる当初の苦情と、DMA下での最初の主要な罰金の対象がこの規定であったことは、その重要性を物語っている。
市場撤退の脅威とその信憑性
Appleは提出書類の中で、DMAが改正されない限り、「27カ国からなるEU圏への一部製品およびサービスの出荷を停止する可能性がある」と警告した。どの製品が対象となるかは明言されていないが、Appleは、現在の規制下ではApple Watchのような製品は「今日EUで発売されなかったかもしれない」と述べている。
しかし、アナリストや評論家の間では、これは「痛々しいほど愚かな脅威」であり、「はったり」であると広く見なされている。EUは5億人以上の富裕な消費者を抱える市場であり、Appleが放棄するにはあまりにも価値が高すぎる。また、株主は短期的なリターンを重視するため、規制当局との長期的な戦いのために巨大市場から撤退することを受け入れる可能性は低い。したがって、この脅威は、EUに法律の改正や執行の軟化を迫るための、賭け金の高いロビー活動および交渉戦術であると見なされている。
消費者と企業への影響
この対立は、AppleとEUの二者間にとどまらず、消費者、開発者、そして国際的な規制の動向にまで広範な影響を及ぼしている。
消費者にとっては、DMAは選択肢の拡大と新たなリスクの両面を持つ。サイドローディングを通じてApp Storeでは入手できないアプリにアクセスしたり、より安価な代替決済システムを利用したり、デバイスやサービス間の相互運用性が向上したりすることが期待される。一方で、審査を受けていないマーケットプレイスからのマルウェア、詐欺、不適切なコンテンツに晒されるリスクが高まる。さらに、Appleの新機能の提供が遅れることで、EUのユーザーが所有するデバイスと世界の他の地域のデバイスとの間に機能的な格差が生まれている。
開発者にとっては、代替アプリストアを利用することで、Appleの手数料を支払うことなくユーザーにリーチできる可能性を得る。また、独自の決済システムを使用し、外部のオファーについて顧客と直接コミュニケーションをとることも可能になる。しかし、Appleが導入したコンプライアンスの枠組みは、新たな複雑さとコストをもたらした。特に「コアテクノロジー料」は、多くのユーザーを持つ無料または低価格のアプリがApp Store外で存続することを困難にする可能性がある。
グローバルな規制トレンドへの影響
この対立は、「ブリュッセル効果」の典型例だ。これは、多国籍企業が最も厳しい基準をグローバルな事業全体で採用する方が効率的であるため、EUの規制が事実上の世界標準となる現象を指す。
この影響を受け、他の国々も独自のDMA類似規制を策定する動きを見せている。日本の「スマートフォンにおける特定ソフトウェアの競争の促進に関する法律」は2024年6月に成立し、2025年12月までに完全施行される予定だ。インドの「デジタル競争法案」は2024年3月に法案の草案が公表され、ブラジルの関連法案も議会で協議中だ。
ただし、各国は単にDMAを模倣しているのではなく、その原則を自国の法制度、市場の現実、政策の優先順位に適応させている。これは、グローバルなテクノロジー企業が、EUへの対応策を他の主要市場にそのまま適用できないことを意味する。
タイ企業への影響と対応策
この対立はタイ企業にも重要な影響を与える。まず、アプリ開発を行う企業にとって、EUでの新たなビジネス機会が生まれる可能性がある。代替アプリストアの出現により、Appleの手数料を回避する新たな収益化モデルが検討できる。ただし、EUとその他の地域で異なる戦略が必要となり、開発・運用コストの増加に注意が必要だ。
次に、デバイス間の相互運用性の向上は、iOSエコシステムに依存しない製品開発の機会を生み出す。タイのハードウェアメーカーやソフトウェア開発企業にとって、これは新たな市場参入の機会となる可能性がある。
また、グローバルな規制トレンドの理解が競争力の源泉となる。日本、インド、ブラジルなど他のアジア市場でも類似の規制が策定されつつあるため、EUでの動向を注視することで、今後のグローバル市場での事業展開に備えることができる。
BKK IT Newsとしては、この対立は短期的には現状維持と継続的摩擦のシナリオが最も可能性が高いと考える。Appleは「悪意あるコンプライアンス」戦略を継続し、法廷で罰金に異議を唱えながら、法律で要求される最低限の措置を実施する可能性がある。EUは法執行を続け、新たな調査を開始し、追加の罰金を科すことが予想される。
長期的には、法的および市場からの圧力が高まる中、Appleが許容可能と判断する技術的・ビジネス的解決策を見出し、遅延していた機能の一部をEUで展開する可能性もある。これには、プライバシーを保護する新しいAPIの開発や、収益を回復するための新たなビジネスモデルの導入が含まれる可能性がある。
この紛争は、デジタル経済の未来を形作る上で、いくつかの重要な長期的影響をもたらす。テクノロジー企業が単一の製品とビジネスモデルを世界中で展開できた時代の終わりを告げ、規制要求に基づく地域ごとのカスタマイズが常態化する可能性がある。また、多国籍テクノロジープラットフォームに対する国家権力の再主張における重要な局面であり、デジタル空間を統治するのは誰か、という根本的な問いを投げかけている。
参考記事リンク
- EU rejects Apple’s call to scrap digital markets act – Times of India
- Apple calls for changes to anti-monopoly laws and says it may stop shipping to the EU – The Guardian
- The Digital Markets Act: ensuring fair and open digital markets – European Commission
- The Digital Markets Act’s impacts on EU users – Apple
- Digital Markets Act – Wikipedia