2025年、タイ政府が進める包括的なAI規制法案は、経済戦略における重要な転換点を示している。電子取引開発機構(ETDA)が中心となって策定を進める「AI法原則草案」は、欧州連合(EU)のAI法をモデルとしながらも、タイ独自の実情に合わせた柔軟なアプローチを採用している。この法案は、タイランド4.0政策と2027年までの国家AI戦略を支える法的基盤として、規制による保護とイノベーション促進の両立を目指している。
ドラフト法案の策定経緯
タイのAI法制定に至る過程は、2つの異なる方向性を持つ草案の統合から始まった。2022年に国家デジタル経済社会委員会事務局(ONDE)が提示した「規制AI法」は、EUのAI法を強く反映し、リスクベースの厳格な規制と消費者保護を重視していた。一方、2023年に電子取引開発機構(ETDA)が作成した「支援AI法」は、イノベーション育成とエコシステム成長を最優先事項としていた。
この2つの草案は根本的に異なる哲学を持っていた。ONDE草案が「保護」を重視する一方で、ETDA草案は「成長」を重視していた。2025年6月、規制当局は公聴会を開催し、両草案を統合した実用的な単一文書の作成を決定した。この統合プロセスにより誕生したのが、現在議論されている「AI法原則草案」である。
統合された原則草案は、ONDE草案からリスクベースの考え方を、ETDA草案からサンドボックスやデータ共有といった促進策を取り入れた構造となっている。固定的な最低保証金(MAG)から売上連動型へと移行する姿勢は、市場変動に対する柔軟性を確保する試みと言える。
リスクベース・アプローチの採用
ドラフト法案の中核をなすのは、EU AI法に倣ったリスクベース・アプローチである。AIシステムがもたらす潜在的な危害のレベルに応じて規制の厳格さを変える仕組みで、主に2つのカテゴリーを導入している。
「禁止リスクAI」は、その危害を緩和することができず、社会に許容できない脅威をもたらすシステムを指す。サブリミナル技術を用いて人の行動を操作するシステムや、政府によるソーシャルスコアリングなどが該当する可能性がある。「高リスクAI」は、基本的人権や公共の安全に重大な影響を与える可能性があるが、厳格な義務を遵守することを条件に使用が許可されるシステムである。個人の信用力を評価するクレジットスコアリング、採用候補者をスクリーニングするソフトウェア、自律走行車などが例として挙げられている。
この枠組みにおける最も重要な特徴は、これらの「禁止」および「高リスク」AIの具体的なリストを法律本文に固定しないという決定である。代わりに、金融分野であればタイ銀行、医療分野であれば保健省といった分野別規制当局に、下位法令を通じてリストを発行し、技術の進展に応じて随時更新する権限を与えている。
この動的リストアプローチは、法律の柔軟性と将来性を確保するための選択である。AI技術は急速に進化するため、法律本文に具体的な技術や用途を書き込むと、すぐに時代遅れになる危険がある。タイのドラフト法は、この問題を回避するために権限を専門機関に委譲する方法を選んだ。
ただし、この柔軟性には代償が伴う。企業にとっては規制の断片化という課題が生まれる。同じAIツールが、金融セクターでは「高リスク」と分類される一方で、物流セクターではそうではないという状況が発生しうる。企業は複数の規制当局からの発表を継続的に監視する必要がある。
提供者と展開者の義務分離
ドラフト法案は、高リスクAIシステムに関わる主体を「提供者」と「展開者」に明確に区別し、それぞれに異なる義務を課している。
提供者の義務は、主にシステムの安全性と信頼性を確保することに焦点を当てている。リスク管理フレームワークの導入、重大インシデントの報告、タイ国外に拠点を置く提供者の場合は国内代理人の任命が求められる。
展開者の義務は、システムの適切な運用と監督に重点を置いている。人間の監督の確保、運用ログの維持、入力データの品質確保、影響を受ける個人への通知が主な内容である。さらに、チャットボットやディープフェイクのようなシステムには透明性義務が課され、AIによって生成されたコンテンツにはその旨を明記するラベリングが要求されている。
この義務の分離は、コンプライアンスの責任がエンドユーザーに一方的に押し付けられるのを防ぐ点で重要である。同時に、AIベンダーと顧客企業との間で、新たな世代の複雑な契約関係を生み出すことを意味する。今後のサービスレベル契約には、データ品質基準、モデル性能保証、インシデント発生時の共同調査プロトコルなどが法的拘束力を持つ形で記載される必要が出てくる。
イノベーション促進策
ドラフト法案は、厳格なガードレールを設ける一方で、イノベーションを積極的に促進するための具体的なメカニズムを組み込んでいる。
その中核となるのが「AI規制サンドボックス」である。企業が規制当局の監督の下、管理された環境で新しいAIアプリケーションを試験的に導入できる制度だ。このサンドボックスの最大の魅力は「セーフハーバー」条項にある。善意でサンドボックスに参加し、テスト中に意図しない危害が発生した場合、参加者は規制当局からの罰則を免除される。
ただし、このセーフハーバーには重要な限定が付されている。規制上の罰則は免除されるものの、民事上の損害賠償責任は免除されない。これは、イノベーターにとって計算されたリスクを生み出す。政府からの罰金は免れるが、実験によって損害を受けた市民や企業からの訴訟からは保護されない。この構造は、大胆なイノベーションを奨励しつつも無謀な実験を防ぎ、参加企業に十分な賠償責任保険への加入や厳格なリスク緩和策の実施を促すバランスを実現している。
もう一つの重要な促進策は、AIモデルの訓練を支援するためのテキスト・データマイニング(TDM)に対する限定的な著作権免除である。これはEUの著作権指令と同様のアプローチであり、研究者や開発者が合法的に大量のデータにアクセスし、AIモデルを構築することを容易にする。
ガバナンス体制と執行
タイのAIガバナンス体制において、中心的かつ調整的な役割を担うのが電子取引開発機構(ETDA)である。その傘下に設置されるAIガバナンスセンター(AIGC)が、実質的な運用ハブとなる。
AIGCに与えられた責務は、単なる規制機関のそれを超えている。AIガバナンスに関する研究開発の実施、AIを導入する組織への助言サービスの提供、AI規制サンドボックス・イニシアチブの支援、国家AI準備状況に関する統計の編集、AI開発と応用の世界的傾向の監視などが含まれる。
これらの任務を分析すると、AIGCが単なる規制者としてではなく、国家的な「センター・オブ・エクセレンス」であり、「準コンサルタント」として設立されることがわかる。タイ政府は、国内の民間セクターがAIガバナンスに関する専門知識を欠いていることを認識している。そのため、単に規則を公表して違反者を罰するのではなく、企業がコンプライアンスを遵守し、イノベーションを創出するのを積極的に支援するための機関を創設した。
分野別規制当局に大きな権限を委譲している点も特徴的である。禁止リスクおよび高リスクAIのリストを定義し、各分野の特定のニーズに合わせた実施規範を発行する権限が専門機関に与えられる。証券取引委員会(SEC)は2023年に資本市場におけるAI利用に関する規制枠組みを公表しており、タイ銀行(BOT)も金融サービスにおけるAIリスク管理ガイドラインに関するパブリックコンサルテーションを実施している。
執行権限については、法律に準拠しないAIの提供や使用を停止させるための行政命令を発行できる。問題のAIサービスがデジタルプラットフォーム上で提供されている場合、当局はプラットフォーム事業者に対してサービスの削除またはアクセス遮断を命じる権限を持つ。この「プラットフォームのテイクダウン」権限の導入は、流通チャネルを標的とする強力な執行メカニズムである。
EUとの比較と「タイモデル」
タイのドラフト法がEU AI法のアーキテクチャを反映していることは明白である。リスクベースのアプローチ、リスク階層の分類、サンドボックスやテキスト・データマイニングの免除といった促進メカニズムは、EUのアプローチと軌を一にしている。
タイがEUのアーキテクチャを採用したのは、将来のAI市場を欧州の企業やデータフローにとって「安全」で互換性のある管轄区域として位置づけるための戦略的な動きと分析できる。EUを拠点とする企業が、タイの規制環境を馴染み深く、管理可能であると感じるようにすることで、規制の枠組みが未発達な近隣ASEAN諸国に対して競争上の優位性を確保し、EUからの投資を呼び込むことを狙っている。
しかし、タイのドラフト法はいくつかの重要な点でEU AI法とは一線を画している。最大の相違点は、高リスクAIリストの定義方法である。EU AI法では法律本文の附属書に明記されているが、タイのドラフト法は分野別規制当局が発行する柔軟な下位法令に委ねている。
根底にある哲学の重点も異なる。EU AI法が基本的人権の保護を最優先事項とするのに対し、タイの枠組みはビジネスの成長と商業的競争力の育成により大きな相対的重点を置いている。サンドボックスのアプローチにも違いが見られ、EUでは適合性評価の正式な一部として位置づけられるのに対し、タイでは参加が任意であり、ペナルティからのセーフハーバーというインセンティブが付与されている。
これらの類似点と相違点を総合すると、タイは自国の状況に合わせて調整された独自の「タイモデル」を構築していることが明らかになる。このモデルは、規制と振興の要素を併せ持つハイブリッドな性質、固定的なルールではなく状況に応じて変化する動的な規制アプローチ、政府が審判であると同時にコーチとしても機能する二重の役割によって特徴づけられる。
主要産業への影響
タイの金融セクターは、AI導入において最も先進的な分野の一つである。タイ銀行(BOT)は、ドラフトAI法に先んじて金融サービス提供者向けのAIリスク管理ガイドラインの草案を公表し、パブリックコンサルテーションを実施した。
金融機関は、取締役会と上級管理職がAIシステムの導入と運用に関する最終的な説明責任を負うことになる。クレジットスコアリングや融資承認など、顧客に重大な影響を与える高リスクな用途では、AIのライフサイクル全体を通じたリスク評価と人間の監督が不可欠となる。タイではデジタル詐欺による被害が深刻化しており、2023年には700億バーツ以上の損失が報告されている。法律によるリスク管理の義務化は、金融機関のAIと機械学習を活用した不正検知システム構築を加速させるだろう。
医療セクターは、高齢化社会の進展と「メディカルハブ」構想という二つの大きな潮流の中で、AI技術への期待を高めている。しかし、タイの医療データは一次、二次、三次医療機関の間でシステムが統一されておらず、相互接続されていないという問題を抱えている。ドラフトAI法が高リスクAI(診断支援システムなど)に課す「入力データの品質確保」の義務は、医療機関に対してデータガバナンスの強化と標準化を促す圧力となるだろう。
法律専門家にとって、ドラフトAI法は二重の意味を持つ。自らがAIツールを利用する際の行動規範となり、クライアント企業にアドバイスを提供する新たな専門分野となる。企業は自社が利用または提供するAIシステムがどのリスクカテゴリーに該当するかを評価し、適切なガバナンス体制を構築する必要がある。法律専門家は、この「AIインベントリのマッピング」と「リスク分類」において中心的な役割を果たすことになる。
企業の準備と今後の展望
ETDAは、2025年5月から6月にかけて実施されたパブリックコンサルテーションで得られたフィードバックを基に、現在、統合された原則草案を改訂している。この改訂プロセスは2025年後半まで続くと予想されており、その過程でさらなる公聴会が開催される可能性がある。
改訂された法案は、その後、内閣の承認、法制委員会による審査、国会での審議という正式な立法プロセスを経ることになる。具体的な施行時期はまだ不透明だが、プロセスが順調に進めば、タイはASEANで最初に包括的なAI法を制定する国の一つとなる可能性がある。
企業が取るべき準備として、自社が開発、輸入、販売、または業務で利用しているすべてのAIシステムを洗い出し、インベントリを作成することが挙げられる。各AIシステムのユースケースを評価し、ドラフト法が示す「禁止リスク」または「高リスク」に該当する可能性を暫定的に分類する必要がある。
国際的なベストプラクティスに沿ったAIガバナンス文書の作成に着手することも重要である。これには、AI倫理指針、リスク評価手順、人間の監督に関するポリシーなどが含まれる。AIシステムが処理するデータに個人データが含まれていないかを確認し、個人データ保護法(PDPA)の遵守状況を徹底的に見直すことも必要だ。
ETDAからの公式発表だけでなく、自社が属する業界の分野別規制当局の動向を継続的に監視する体制を構築することが、今後のコンプライアンス対応において不可欠となる。早期の準備は、コンプライアンスリスクを低減するだけでなく、AIを責任ある形で活用しているという企業評価を高め、競争上の優位性にもつながるだろう。
BKK IT Newsとしては、タイのドラフトAI法が、厳格な規制と自由なイノベーションという二者択一ではなく、両者のバランスを取るという難しい課題に正面から取り組んだ試みと評価している。この「タイモデル」の成否は、分野別規制当局間の調整、AIGCの実効的な運営、そして深刻な人材不足への対応にかかっている。タイで事業を展開する企業にとって、この規制環境の変化を注視し、戦略的な準備を進めることが今後の競争力を左右する重要な要素となる。
参考記事リンク
- Thailand’s draft AI law: A new era for governance and innovation – Norton Rose Fulbright
- Thailand: AI Law Movement | Global law firm | Norton Rose Fulbright
- Thailand national AI strategy and action plan (2022 – 2027)
- Thailand Resumes Development of AI Regulatory Framework – Tilleke & Gibbins
- Navigating Thailand’s AI Law: Development at a Crossroads – Tech For Good Institute