タイ中央銀行(BOT)が2025年9月に発表したデジタル詐欺対策の強化は、過去の被害総額980億バーツという深刻な現実に対する必要不可欠な対応である。この取り組みは単なる防御策ではなく、デジタル経済の信頼性確保とタイの金融インフラ進化における歴史的転換点となっている。
深刻化するデジタル詐欺の実態
タイのデジタル詐欺被害は予想を超える規模に達している。2022年だけで約1,000億バーツの被害が報告され、2024年には40万件以上の事例で600億バーツの損失が発生した。2025年第2四半期だけでも60億バーツの被害が確認されている。
この数字の背景には、タイの急速なデジタル化の成功が皮肉にも犯罪者に悪用されているという現実がある。プロンプトペイシステムは国民の70%以上が利用し、モバイルバンキング契約数は1億2,670万件を超える。この普及率の高さが、詐欺師にとって格好の標的となっている。
詐欺手口も巧妙化している。初期の「資金吸引アプリ」は技術的対策により根絶されたものの、現在はAI支援型の認証済み詐欺が主流となっている。音声クローニングやディープフェイク技術を使った首相へのなりすまし電話事件まで発生している。
特に深刻なのは「3分間の強盗」と呼ばれる現象だ。被害者の口座から資金が送金されるのにわずか3分しかかからないのに対し、被害者が詐欺に気づいて通報するまでには平均18時間以上かかる。この時間的非対称性が、事後対応を極めて困難にしている。
BOTの多層的防衛戦略
BOTは「テクノロジー、規制、データ」の三本柱戦略で対応している。
テクノロジー面では、中央詐欺登録システム(CFR)をAPIでアップグレードし、口座凍結の自動化・高速化を実現した。50,000バーツを超える送金には生体認証を義務付け、AIシステムは人間職員94人分に相当する速度で詐欺をスキャンしている。
規制面では、2025年のサイバー犯罪防止抑制緊急勅令改正により、銀行、通信事業者、デジタルウォレット提供者、ソーシャルメディアプラットフォームに共同責任を課す画期的な制度を導入した。これにより事業者は単なる仲介者ではなく、過失が認められた場合には詐欺損失に対して金銭的責任を負うことになった。
データ面では、情報のサイロ化を打破し、CFRを通じて銀行、ノンバンク、デジタル資産取引所間でシステム全体のデータ共有を促進している。統一されたAOC 1441ホットラインにより、被害者からの通報も改善されている。
取り締まりの成果と副作用
BOTの取り組みは確実な成果を上げている。280万を超える他人名義口座の取り締まりにより33億バーツの被害を削減し、認証済み送金詐欺による損失は2024年第2四半期の89.5億バーツから2025年第2四半期には56.5億バーツに減少した。
しかし、積極的な取り締まりは意図しない副作用も生んでいる。2025年9月には罪のない個人や企業の口座が突然凍結される事態が発生し、広範な国民からの不満が噴出した。100件以上のサンプルではわずか11%の口座しか凍結解除されず、サポートセンターに連絡した1,300人のうち凍結解除に成功したのは10%に過ぎなかった。
この「巻き添え被害」は、大規模な自動化された法執行の限界を露呈している。犯罪者を捕らえるために設計されたシステムは、正当な金融活動の複雑さを完璧に判別するほど精密ではなく、結果として国民の信頼を損なうリスクを生んでいる。
企業への影響と対応策
新たな規制は企業に重要な影響を与えている。共同責任の枠組みにより、金融機関やプラットフォーム事業者は運営上およびコンプライアンス上の負担が大幅に増加している。より高度な監視システムへの投資、顧客確認プロトコルの強化、政府指令への対応体制構築が求められる。
法律違反には最大50万バーツの罰金や責任者の禁固刑を含む重い罰則が科される。これによりサイバーセキュリティと詐欺防止は、単なるIT部門の問題から取締役会レベルのコーポレートガバナンス事項へと格上げされた。
中小企業は特に注意が必要だ。決済プロセスの適応、新たな認証のハードル、取引の遅延、問題のある顧客や供給業者と取引した場合の口座凍結リスクに直面している。
進化する脅威への対応
デジタル詐欺の脅威は進化し続けている。将来の詐欺はAIによって支配され、ディープフェイク動画や音声クローニングがより巧妙になる。多くの詐欺活動が近隣諸国から運営されており、効果的な対処には国際的な法執行協力が不可欠だ。
BKK IT Newsは、この戦いの長期的成功には、静的な規則から新技術や脅威に適応できる動的な規制フレームワークへの移行が必要と考える。官民連携の深化、特に高齢者などを対象とした国家デジタルリテラシープログラムへの投資も重要になる。
企業はAIと機械学習を活用したリアルタイムの行動分析導入、セキュリティ対策のユーザー体験向上、業界全体でのセキュリティ基準策定に取り組むべきだ。
今後の展望
タイの経験は、デジタル化の利便性とセキュリティ確保の間の根本的な緊張関係を浮き彫りにしている。政府の断固とした対応は必要不可欠であったが、国民の信頼を維持しながらセキュリティを最大化するための微調整が求められている。
今後の道筋は、デジタル化からの後退ではなく、より強靭で協調的なセキュリティ体制への進化である。技術革新、適応性のある規制、官民の強固な連携の動的なバランスの上にのみ、持続可能なセキュリティが成り立つ。
この戦いは決して終わったわけではない。ただ、より複雑で新たな段階に入ったに過ぎない。タイの経験は、急速にデジタル化を進める他の新興経済国にとって極めて重要な教訓となっている。
参考記事リンク
- Thai Central Bank Fights Back Against Digital Scams After Public Losses of THB 98 Billion
- Thai central bank claims Bt100bn lost to online scams in 2022 alone
- Online Fraud Cost Thailand 60 Billion Baht in 2024, Report Reveals
- Thailand’s AI-Powered Scam Block Law: Lessons for Financial Platforms
- Thailand Enacts Comprehensive Legislation to Combat Technology-Related Crimes